パチンコ「悪友の誘いに屈して付き合いで打った初めてのパチンコ」【不定期新連載~アニマルかつみの銀玉回顧録 Vol.001】

「不定期新連載~アニマルかつみの銀玉回顧録」スタート!!

 ご存じのことと思うが、自分ことアニマルかつみは、主にパチスロ必勝ガイドや漫画パニック7といったガイドワークス系の雑誌メディアをホームグラウンドとする、いわゆるパチスロライターである。

 1992年のパチスロ必勝ガイド月刊創刊を機に縁あってこの世界に入って、今春でちょうど30年。まさか、人生の半分以上をパチスロに関する記事を書いて過ごすことになろうとは…。当時26歳だった自分には、微塵も予想できなかった。

 さて、本サイトでは一昨年から、パチスロの歴史を振り返る「回胴青春時代」というタイトルのコラムを寄稿させていただいているのだが、年相応に古いパチンコに関してもそれなりに造詣が深い(と自負している)ので、この度、不定期というかたちだが新たにパチンコに関するコラムを寄稿させていただくこととなった。

 同年代の方には懐かしく、そうでない若い世代の方は、年寄りの昔話にあたたかな気持ちでお付き合いしていただければ幸いである。

 前置きが長くなかってしまったが、手始めに今回は、個人的なパチンコとの出会いについて綴ってみよう。

 何事にもおおらかだった昭和の時代のパチンコ店は、いまと違って小さな子どもを連れての入店も禁止されていなかったので、同年代の中には「お父さんに教わってパチンコを覚えた」という人も少なくないと思う。

 が、自分の父は酒もタバコも賭け事も一切やらない真面目な人だったので、残念ながらそういった思い出やエピソードは一切無い。

 生まれて初めてパチンコ店に足を踏み入れたのは、十代の半ば。背伸びをして、あれこれと大人の真似事をしたくなる年頃である。きっかけは、「クラスメイトの悪友に誘われて、なんとなく…」という、ごくありがちなものだった。

 時は1981年。前年に三共(現・SANKYO)から発売された史上初のデジパチ『フィーバー』が社会現象的な一大センセーションを巻き起こしていた一方で、平和からはハネモノの元祖『ゼロタイガー』が登場。こちらも大人気となり、にわかにパチンコがブームとなっていた頃合いだった。

1978年に登場したインベーゲームの大ブームによりパチンコは深刻な客離れに陥っていたが、1980年に登場した『フィーバー』と翌1981年に登場した『ゼロタイガー』によって見事に危機を脱し、パチンコは再び黄金時代を迎える。(パチンコ攻略マガジン1989年5月号より)


 もちろん、そんな時代背景的なことは当然のことながら後々になって知ったことなのだが、とりあえずその時点では、パチンコの魅力にとりつかれハマってしまうようなことはなかった。ほかに熱中していたことがあったからである。

 当時、地元の県立高校の1年生だった自分はロック音楽に傾倒し、いつしかプロのミュージシャンになることを夢見て日々、学業もそっちのけで楽器の練習に没頭していた。

 そんな当時の自分にとってパチンコは、たまの息抜きというか、悪友のしつこい誘いに仕方なく付き合っていただけの存在にすぎなかった。

 手持ちが乏しかったこともあって、チューリップ台やハネモノでほんの数百円遊んで玉が尽きたら、はい終了。あとは、晩飯をご馳走になろうと悪友が出すのを待つか、さもなくば「ほな、お先に」と早々に退散するか。いつも、そんな感じだった。

 翌年の夏、色々あって高校を2年で中退し、悪友たちとも離ればなれになったことで、めっきりパチンコからも足が遠退いてしまうのだが、それから数年が経ち成人を迎えた頃、新たなパチンコ好きの悪友が現れたことで、再びパチンコと対峙することとなる。

 そんなわけで次回は、新風営法施行によって誕生した新たなデジパチがブームを巻き起こしていた1985年の頃のエピソードを綴ってみたい。

(文=アニマルかつみ)
〈著者プロフィール〉
兵庫県尼崎市出身。1992年春にパチスロ必勝ガイドのライターとなり、以来30年にわたってメディア人の立場から業界の変遷を見つめてきた大ベテラン。ぱちんこ・パチスロの歴史に関しては誰にも負けない博識を持つ。最近ではYouTube動画チャンネル「ぱち馬鹿」のメンバーとして、各種企画の制作や出演、生配信などにも精を出している。ライター稼業のかたわら、ロックバンドのベースプレイヤーとしても活動中。愛猫家。昭和レトロ好き。
■Twitter(@anikatsu213):ANI-Katsu(アニマルかつみ)

関連記事

パチンコ・パチスロ最新記事

人気記事ランキング 17:30更新

パチンコ

パチマックス

総合

編集部イチオシ記事
SNS