ヒールから主役へ、そして壮絶な死……誰もが”感情移入”した「刺客」ライスシャワー
「競馬」というのは、もちろん馬が競走する競技であり、馬に人間が思い描く「競走」の意志があるかどうかは定かではなく、それは経済動物を扱う関係者にとって永遠のテーマでもある。
ただ、長い競馬の歴史の中で、彼らがどう考えても「レースに臨んでいる」としか思えない瞬間がたくさんあった。90年代のオグリキャップやトウカイテイオー、最近でもブエナビスタやオルフェーヴルなど、人間の意志が乗り移ったようなレースをする馬は確かに存在するのが現実だ。だからこそ「感情移入」することで感動が生まれ、だからこそ長期にわたり人気を保持しているのである。
“感情移入”というくくりでいえば、ライスシャワーという馬も、多くのファンの琴線に触れた馬だったといえる。ライスシャワーの生涯は、最初から最後までドラマ尽くしだった。
北海道登別市のユートピア牧場で、1989年に産声を上げたライスシャワー。漆黒の馬体、小柄ながらも人間の指示に従順で、走りも滑らかということから評判がよかったらしい。しかし、足元がもろく、骨折などもあって出世までは時間がかかった。
通算成績4戦2勝で迎えたクラシック第1弾・皐月賞は8着、当時はG2だったNHK杯でも8着と連続して結果を出せず、当然ながら大一番・日本ダービーでは16番人気と最低クラスの評価となった。世間の注目は皐月賞を無敗で制した怪物・ミホノブルボンに注がれており、ライスシャワーは刺身の”ツマ”にもなっていなかったということだ。仕方がない話ではある。
無論、日本ダービーでもミホノブルボンが圧巻の逃げ切りで無敗2冠達成。ただ、2着には16番人気のライスシャワーが入る大波乱となった。多くのファンが愕然としただろう。どうやら、牧場などではさほど驚きではなかったそうで、ミホノブルボンとの馬連馬券1000円分をボーナス代わりに出したなんて話もあったというのだから驚きだ。
皐月賞は2000m、そして日本ダービーは2400m。血統的にも戦績も、距離が伸ばすことが得策なライスシャワーは、秋の大目標を京都競馬場のクラシック最終戦・菊花賞(3000m)に定める。
無敗のまま菊花賞に臨んだ3冠候補・ミホノブルボン、そしてここに全てをかけて臨んだライスシャワー。その軍配は、ライスシャワーに上がる。
ミホノブルボンを直線半ばで交わした見事な勝利だった。強靭なステイヤー(長距離馬)誕生の瞬間でもあった。
しかし、ミホノブルボンの”クラシック3冠”を期待していたファンとしては、歴史的瞬間をライスシャワーに「邪魔された」という認識がほとんど。G1制覇にもかかわらず、その評価は、現代風にいうなら「KYな悪役」でしかなかった。
そしてライスシャワーの「悪役」っぷりに追い討ちをかける出来事が起きてしまう。翌年春、京都競馬場で開催され、日本一の長距離馬を決定する天皇賞・春(3200m)3連覇を狙ったメジロマックイーンを撃破してしまうのである。メジロマックイーンの鞍上は、当時すでにスターだった武豊。「またライスシャワーか」「大記録がなくなった」と、ため息を漏らす結果の立役者となってしまったのだ。
もっとも、この時のライスシャワーはマイナス14キロ、メジロマックイーンを倒すべく究極の仕上げ、極限まで削ぎ落とした馬体で出走していたのだ。その点を鑑みることなく「悪役」「関東の刺客」になってしまった部分は、気の毒としか言いようがない。
その後、無理な減量がたたったのか、ライスシャワーは惨敗を繰り返し、翌年の春には重度の骨折を負う。10カ月近くを休養に当てざるを得ず、復帰したのはその年の有馬記念。レースは3着だったものの、年明けの2レースは連続で6着と、いよいよ忘れられた感があった。
しかし、2年ぶりに出走した天皇賞・春で、ライスシャワーは再びの激走を見せる。食い下がる年下のライバルたちをねじ伏せ、得意の京都競馬場での復活勝利。さすがのファンもケガを超えての復活劇に感動したようで、ここへきて一気に人気馬となる。
力を見せながらも立てなかった主役の舞台。それをようやく手に入れたライスシャワーは、ファン投票1位で夏のグランプリ・宝塚記念(この年は京都競馬場で開催)に出走する。初の真打ちとしての登場だ。
順調にレースを進めたライスシャワー。堂々たるレースぶりで馬群を進めていた。連勝も期待したファンもいたはずだ。
しかし第3コーナー、一瞬にして期待や夢は断ち切られる。
誰の目から見ても「絶望的」と言わざるを得ない左前脚の骨折。もはや立ち上がることすらできなくなったライスシャワーは、その場で安楽死処置を取られた。主戦騎手であった的場均は、馬運車で運ばれる彼を最敬礼で見送った……。
一瞬にして失われたライスシャワーの命……その衝撃と世間の反応は凄まじく、高速馬場への批判や、記念碑の建立になるまでの騒ぎとなった。しかし、そのような「死後ブーム」に意味があるのかと疑問を呈する人間も多くはなかった。
競馬場で骨折して安楽死というのは、競馬においては決して珍しいことではなく、「ヒール」から「スター」になってしまったライスシャワーの突然の死を美談にしたいジャーナリズムだという意見もある。そして世間というのは、そういうストーリーに弱く、それこそ”感情移入”してしまうのである。
ただ、彼を評価する際は、ミホノブルボンやメジロマックイーンという紛れもない強豪を京都の舞台で真っ向から下したこと、骨折を乗り越え、天皇賞を制したその強さ、現代競馬最後の「本物の長距離馬」の姿であるべきで、死の瞬間ではないはず。京都で躍動したその美しい馬体でなくてはならないはずだ。そういう意味でも、ライスシャワーは何ともドラマ性ある馬だったのは間違いがない。
京都で咲き、京都で散った「刺客」ライスシャワー。彼は現在も、サイレンススズカなどとともに「悲劇の名馬」の1頭としてファンの記憶に刻まれている。