
JRAイチの「豪快王」小島太列伝。愛人、酒席トラブルあっても名騎手、名調教師の生き様に曇りなし
デビュー1年目は11勝だが勝率8.8%は決して悪い数字ではなく、2年目には年間37勝だけでなく重賞3勝、3年目も重賞3勝と順調に勝ち星を伸ばした。デビュー7年目の72年は年間48勝で関東リーディングジョッキーを獲得。そして78年にはサクラショウリで日本ダービーに優勝、G1ジョッキーの仲間入りを果たした。
83年にはサクラショウリの馬主である全演植(さくらコマース)と専属騎乗契約を交わしたが、これが500万円という破格の金額。当時の日本ダービー1着賞金の約14分の1という金額だ。その後86年にはサクラユタカオーとのコンビで天皇賞(秋)を勝利、88年にはサクラチヨノオーとのコンビで二度目の日本ダービー優勝。さらにサクラホクトオー(朝日杯3歳S)、サクラバクシンオー(スプリンターズS)、サクラチトセオー(天皇賞秋)、サクラキャンドル(エリザベス女王杯)など、サクラの馬で数々のビッグレースに勝利した。
小島太は勝っても負けても華になる騎手だった。大一番での勝負強さもあれば、意外な負け方をするときもあった。しかし自ら率先してフランスへ騎乗技術を学びに行くなど、その姿勢を評価する声も大きかった。
また86年で1番人気に騎乗したときの勝率56.8%、連対率70.3%(騎乗37回)はかなりの数字。引退3年前の94年でも勝率53.6%、連対率67.9%(騎乗28回)から見ても、やはり騎手として強い馬を勝たせる技術があったのは間違いあるまい。(参考記録=2017年ルメールで勝率38.1%、連対率58.7%、武豊が年間212勝を記録した05年で勝率37.9%、連対率52.3%)
騎手として絶頂期を迎えた1987年頃より全演植(さくらコマース)と絶縁状態になり、数か月後に和解するものの一時期さくらコマースの馬にまったく乗れなくなるという事態が生じたこともあった。このトラブルは別の馬主との接近が要因だが、それも人気と実力があったからのものであろう。
そして1996年2月25日、中山競馬場で騎手小島太は引退し、引退式には「フトシ」コールが起きた。それほど多くのファンに愛された騎手だったのだ。通算成績は8474戦1024勝(重賞84勝・日本ダービー2勝)と一流ジョッキーと呼べる素晴らしいものであった。
PICK UP
Ranking
17:30更新「3大始祖」消滅の危機……日本で「2頭」世界で「0.4%」の血を残すべく立ち上がったカタール王族の「行動」に称賛
武豊が社台に干された「曰く付き」阪神JF……”引退説”が囁かれた大スランプの原因「ダンスファンタジア事件」とは
「シャフリヤールの激走はわかっていた」本物だけが知る有馬記念裏事情。そして“金杯”で再現される波乱の結末とは?
- JRAマイネル軍団総帥・岡田繁幸さん逝く。武豊「僕の原点、この馬と一緒に全国区になった」絶体絶命だった天才を世に放った偉大な決断と信念【特別寄稿】
- 浜中俊「哀愁」の1年。かつての相棒ソウルラッシュ、ナムラクレアが乗り替わりで結果…2025年「希望の光」は世代屈指の快速馬か
- JRA池添謙一「2度結婚」「DV不倫」よりも紆余曲折の騎手人生。オルフェーヴル三冠→外国人で凱旋門賞、勝負強さは当代随一だが……
- JRA「馬が走ってくれません」スタート直後の“レース拒否”に大反響!? 三浦皇成も打つ手なし……未勝利馬がまさかの「自己主張」で1か月の出走停止処分
- JRA「パワハラ訴訟」渦中もノーザンファームからの信頼は急上昇!? 藤沢和雄、堀宣行ら関東の名伯楽に迫る勢い、快進撃続く木村哲也調教師の「生き残り戦略」とは
- 皐月賞(G1)クロワデュノール「1強」に待った!? 「強さが証明された」川田将雅も絶賛した3戦3勝馬
- 有馬記念に続き東京大賞典も「記憶力」が決め手…最強フォーエバーヤングから絞りに絞った2点で勝負!