日本競馬の海外挑戦史【1958-1999】ハクチカラ~ミッドナイトベット
この秋は日本ダービー馬マカヒキの凱旋門賞挑戦が話題となっている。これまで、ホクトベガ、エルコンドルパサー、タイキシャトル、ディープインパクト、オルフェーヴルなど日本を代表する名馬が海外のレースに挑戦してきた。今回は、日本馬の海外挑戦成績を二度に渡って掲載しよう。
【1958年】
当時の日本最強馬といわれたハクチカラはアメリカに遠征した。その翌年、渡米後11戦目のワシントンバースデーハンデキャップという重賞で、日本中央競馬会に登録していた日本馬として初めて海外レースを勝利した。しかしはじめこそ今のように日本の調教師、騎手が管理・騎乗していたが、勝利当時のハクチカラはアメリカの厩舎に転厩しており、鞍上も外人騎手での勝利であった。そのため本当の意味での日本馬の勝利とは言い難かった。
【1962年】
天皇賞馬タカマガハラが日本馬として初めてアメリカのワシントンDCインターナショナルに出走。アメリカ二冠馬など豪華メンバーを相手に奮闘するも13頭立て10着に敗退。
【1964年】
前年の年度代表馬リユウフオーレルがワシントンDCインターナショナルに出走したが8頭立て8着。
【1966年】
日本の中山大障害を4連覇した名障害馬フジノオーが障害レースの本場ヨーロッパへ遠征。遠征初戦は6着、そして2戦目に障害競走の最高峰グランドナショナルに出走するも競走中止。その後はフランスで2勝をあげた。
【1967年】
宝塚記念、有馬記念などを制したスピードシンボリがワシントンDCインターナショナルに出走し、9頭立て5着。
【1968年】
当時4歳(現3歳)タケシバオーがワシントンDCインターナショナルへ遠征、8頭立て8着。
【1969年】
スピードシンボリがヨーロッパの長期遠征に出発。初戦のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス5着。ドーヴィル大賞10着。凱旋門賞11着以下と結果を残すことはできなかった。
タケシバオーが再びワシントンDCインターナショナルへ遠征。レース前週からの熱発の影響もあってか二年連続最下位。
PICK UP
Ranking
17:30更新
「3大始祖」消滅の危機……日本で「2頭」世界で「0.4%」の血を残すべく立ち上がったカタール王族の「行動」に称賛
アドマイヤ軍団が「G1・45連敗」武豊と絶縁し「40億円」と引換えに日本競馬界フィクサーの”逆鱗”に触れた凋落の真相?
武豊やC.ルメールでさえ「NGリスト」の個性派オーナーが存在感…お気に入りはG1前に「無念の降板」告げた若手騎手、過去に複数の関係者と行き違いも?- 岩田康誠騎手が「因縁」ゴールドシップ降臨に大興奮!? レースで”指示無視”最後には「すかし芸」の屈辱から2年……「身内」を勝利に導き立場逆転?
- 浜中俊「哀愁」の1年。かつての相棒ソウルラッシュ、ナムラクレアが乗り替わりで結果…2025年「希望の光」は世代屈指の快速馬か
- 「シャフリヤールの激走はわかっていた」本物だけが知る有馬記念裏事情。そして“金杯”で再現される波乱の結末とは?
- 横山典弘騎手が若手騎手に「あの乗り方はやめろ」岩田康誠騎手らが実践する「お尻トントン」は、競走馬の負担になるだけ?
- JRA種牡馬フィエールマン「二軍スタート」の冷遇に疑問の声……実績はコントレイルに次ぐNo.2も問われる「3000m級」G1の価値
- 【ホープフルS】“クロワデュノールなんて目じゃない!”今年最後のG1!冬の中山で走る穴馬の法則、名門調教師絶賛の穴馬!
- 【香港C(G1)展望】BC制覇の偉業から1か月、ラヴズオンリーユー有終の美へ!レイパパレはC.スミヨンと新コンビ、最大のライバルは最高レーティングの英国馬
















