横山典弘が日本ダービー勝利よりも喜んだこと。「目に見えない違和感」で栄誉を手放した騎手と、それを支持した調教師が手にしたJRA最高の勲章
「ご迷惑ならびにご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
3歳牡馬クラシックの開幕戦となった皐月賞(G1)の翌日のことだ。ダノンデサイル(牡3歳、栗東・安田翔伍厩舎)を管理する安田調教師が自身の公式Xを通じて、そう謝罪した。
本番と同じ中山・芝2000mの京成杯(G3)を快勝し、皐月賞でも有力候補の1頭に挙げられていたダノンデサイル。しかし、スタート直前、ゲートの裏で最後の輪乗りを行っている際、主戦の横山典弘騎手が下馬。右前肢のハ行により、無念の競走除外となった。
競馬でよく見かける「ハ行」とは、屈腱炎や骨折といった具体的な症状とは違い、歩様の乱れの総称に使われる。いわば違和感のようなもので、この段階では軽い症状なのか、重い症状なのか、それとも気のせいなのかわからない。目に見えない上、相手はモノを言わぬ馬である。
この春も、中山グランドジャンプ(G1)に出走したマイネルグロンはレース後に右前脚のハ行を発症したと発表があった。そして精密検査を行った結果、右前深屈腱炎と判明。JRAがそれを発表したのは、レースから6日後だった。
だが、その一方で何事もなかったかのように次のレースに帰ってくる馬もまったく珍しくない。
実際に、ダノンデサイルも右前肢の軽い打撲だった。走ろうと思えば、走れたかもしれない。舞台は皐月賞。競馬界最高峰のG1であり、高額な賞金の掛かったレース、そしてダノンデサイルにとっては生涯一度のレースだ。
しかし、横山典騎手は馬から降り、レースから降りた。JRA通算3000勝が迫る大ベテランの脳裏に関係者の思いが過らなかったはずはないが、それでも自分が感じ取った違和感を「気のせい」にしなかった。その責任は極めて重いものだが、自らの経験を信じ、馬優先の信念を貫いてきたのが、横山典弘というジョッキーだ。
安田調教師にしても、悔しくなかったはずがない。皐月賞は厩舎を開業した2018年以来の挑戦だったが、出走したケイティクレバーは同年に解散した目野哲也厩舎から受け継いだものだ。自らがデビューから手掛けた馬では、ダノンデサイルが厩舎初の牡馬クラシック挑戦だった。
だが、安田調教師は皐月賞後「ダノンデサイルの走りを楽しみにしてくださったオーナー、ファンの皆様、関係者の方々、また大事な皐月賞の1枠を台無しにしてしまったことを改めて謝罪すると同時に、厩舎として再発防止の徹底に努めます」(以下、公式X)と陣営を代表して頭を下げた。
横山典騎手に対しては「大変申し訳なく思っております。大事に至る前にダノンデサイルの僅かな変化に気付いていただいたこと、感謝しております」と感謝の意を示していた。
競馬には「無事之名馬」という言葉がある。病気や怪我なく無事に走り続ける馬は名馬であるという意味だ。競馬にとって模範的な言葉だが、これを実践し、実現し続けることの難しさは、ダノンデサイルの皐月賞回避の決断だけでも十分にわかるだろう。
「ダービーを勝ったことも嬉しいけど、皐月賞の自分の決断が間違っていなかったんだなあと」
そして、無念の皐月賞から約1か月後、日本ダービー(G1)という皐月賞さえ上回る中央競馬界最高の舞台で、あの時の「英断」が報われた。3度目のダービー制覇を果たした横山典騎手は、勝利騎手インタビューでそう胸を撫で下ろした。安田調教師をはじめとした関係者の無念、そして、その“引き金”を自らが引いたことを誰よりも強く自覚していたからだろう。
この春の競馬界には、藤岡康太さんがレース中の事故で亡くなるという悲しい出来事があった。2着ジャスティンミラノの戸崎圭太騎手は、そんな故人の思いを背負ってレースに挑んだ。
大きな栄誉を手放して、自身の感覚と信念を貫いた騎手の判断が、日本ダービーの勝利に繋がった。これは、これから同様のケースに直面するジョッキーたちに勇気を与えたはずだ。
この勝利が競馬をより良い方向へ進化させる一石になることを願ってやまない。
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