JRAヒシミラクルおじさん誕生とアグネスデジタルの「意外」な関係性!? クロフネファンから大ブーイングの天皇賞出走、人馬の運命を変えた名馬の惜しまれる死
8日、ジャパン・スタッド・インターナショナルがアグネスデジタルの死亡を発表した。功労馬として余生を送っていた北海道の十勝軽種馬農業協同組合・種馬所での放牧中に不慮の事故に遭ったという。
1997年に米国で生を受けたアグネスデジタル。同期にアグネスフライト、1歳下にアグネスタキオンもいた当時、アグネス冠名の馬が全盛を誇った時代だった。
外国産馬のアグネスデジタルは、当時のルールで牡馬クラシックへの出走権はなく、頭角を現したのは2歳時のダート路線である。
3歳秋までに中央・地方でダート重賞を3勝していたが、芝では4戦して未勝利。芝重賞でも3着の実績はあったが、あくまでも「芝でもそこそこ走るダート馬」という評価だった。それでも歴戦の古馬マイラーを相手にしたマイルCS(G1)に13番人気で挑戦すると、まさかの大激走。人気薄を侮った多くの競馬ファンを驚かせることとなった。
しかしその後は、4歳春にかけて芝路線を歩むもスランプに陥ってしまう。本当の意味で快進撃を見せたのは、4歳秋には再びダート路線に舵を切ってからだ。日本テレビ盃(G3)で10か月ぶりの美酒を味わうと、南部杯(G1)、天皇賞・秋(G1)、香港C(G1)、そして翌年のフェブラリーS(G1)まで怒涛の5連勝。国内外の芝ダートG1で次々と強豪馬たちをなぎ倒していった。
6歳秋まで現役を続けたアグネスデジタルはG1を通算6勝したが、ある人馬の運命を変えたであろう2つのレースを取り上げたい。
1つ目は4歳秋に4番人気で挑んだ天皇賞・秋である。当時は外国産馬には2枠しか出走権がなく、賞金順で1つ目の枠を確保していたのがメイショウドトウだった。そして、2つ目の枠には芦毛の怪物として絶大な人気を誇ったクロフネが滑り込むものとみられていた。
ところが、天皇賞・秋を前に日本テレビ盃と南部杯を連勝したアグネスデジタルが、賞金額でクロフネを上回る。そして、陣営は秋の盾取りに急遽参戦を決めたのだ。この判断にはクロフネの出走を待ち望んでいたファンから大ブーイングが飛んだという。
「アグネスデジタルは前年にマイルCSを勝ちましたが、芝での勝利はその1つのみでした。その年の春は安田記念など東京の芝で不本意な結果に終わっており、距離が2000mに延びる秋の天皇賞挑戦に理解を示せなかったファンも多かったですね。しかし、ご存じの通りアグネスデジタルは結果で応えました」(競馬記者)
アグネスデジタルの参戦で、クロフネは路線変更を強いられ、天皇賞前日の武蔵野S(G3)に回ることになった。それまで芝しか経験がないクロフネだったが、イーグルカフェなど並み居るダートの強豪馬たちを子ども扱い。伝説ともいえる9馬身差の圧勝劇を演じた。
クロフネは続くジャパンCダート(G1)も7馬身差で圧勝。NHKマイルC(G1)に続く、芝ダートG1制覇を遂げ、アグネスデジタルとともに“二刀流”という称号を手にした。
もしアグネスデジタルが天皇賞・秋に参戦していなければ、クロフネのダート挑戦はなかったかもしれない。ダート2戦で見せた化け物級の競馬は種牡馬としてのクロフネの評価を大きく上げたのは言うまでもないだろう。
アグネスデジタルが変えたもう一つの運命。それが最後のG1タイトルを手にした6歳春の安田記念だった。
この勝利によって運命が変わったのは「2億円おじさん」として知られる人物だ。その素性は今も明らかになっていないが、2億円おじさんはその年の宝塚記念(G1)でヒシミラクルの単勝に大金を投じ、2億円近い払い戻しを受けたことで「ヒシミラクルおじさん」としても知られる。
「2億円おじさん=宝塚記念のヒシミラクル」というイメージが定着しているが、もともとはその年のダービー、安田記念、そして宝塚記念の3つのレースで単勝を転がしてのものだった。
元手はダービーでネオユニヴァースの単勝に投じた50万円といわれている。まずは堅く2.6倍を的中させると、続く安田記念では4番人気、9.4倍のアグネスデジタルに130万円を投入。これが1200万円以上となり、最後の宝塚記念で“ミラクル”を起こしたというわけだ。
もしアグネスデジタルが03年の安田記念でクビ差勝利を飾っていなければ、「ヒシミラクルおじさん」は誕生しなかったことになる。
元祖二刀流として名を馳せたアグネスデジタル。固定観念にとらわれないキャリアを歩み、影響を受けた関係者も少なくないだろう。多くのファンに愛されたアグネスデジタルの冥福を祈りたい。
(文=中川大河)
<著者プロフィール>
競馬ブーム真っただ中の1990年代前半に競馬に出会う。ダビスタの影響で血統好きだが、最近は追い切りとパドックを重視。