【特別追悼寄稿】決して「天才」にはなれなかった天才武豊の父・武邦彦 『魔術師』と呼ばれた名手が駆け抜けた時代
まさに新時代の幕開けであった。時代の波に乗った武邦彦は、翌年も代打騎乗したタケホープの菊花賞でハイセイコーを撃破、さらに翌年には史上初の単枠指定を受けたキタノカチドキで皐月賞、菊花賞の2冠を達成している。
さらに2年後の1976年、競馬はトウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスという3頭の名馬によって彩られた「TTG時代」に突入していた。
そんな中、武邦彦は日本ダービーでテンポイントに騎乗しながらも、その年の有馬記念以降は関東馬トウショウボーイの主戦を務めている。当時、関東馬に関西の騎手が乗ることはほぼなかったが、それだけ武邦彦の腕が買われていたということだ。
武邦彦に唯一足りなかったのは騎手リーディングのタイトルだろう。『魔術師』がそれを手にできなかった最大の原因は、同じ時代に福永祐一の父で『天才』と称された福永洋一がいたからだ。事実、武邦彦は2度のリーディング2位になりながらも、いずれも福永洋一に敗れている。
だが、それでも史上5人目、関西の騎手では初となる通算1000勝を達成するなど、間違いなくその時代の中心にいた名手は、まるで息子・武豊の登場を待っていたかのように1984年に騎手を引退。息子のデビューと同年に、調教師として厩舎を開業した。
その後、管理馬のバンブーメモリーで武豊がスプリンターズSを優勝。また1997年には、デビューわずか2日の武幸四郎が管理馬のオースミタイクーンでマイラーズカップを制覇している。2009年の調教師引退の当日、最後の勝利を挙げたのも武幸四郎の騎乗馬だった。
『魔術師』武邦彦。その軌跡は栄光に溢れている。だが、彼が最後まで『天才』と称されなかったのは、ライバルの福永洋一、そして息子の武豊の存在があったからだろう。
2016年8月12日に77歳で死去。僭越ながら、心よりお悔み申し上げます。(敬称略)
(文=浅井宗次郎)