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【日本ダービー】河内洋「あと100mで俺のダービーが終わってしまう」…アグネスフライトVSエアシャカール、武豊と意地をかけたゴール前の攻防【競馬クロニクル 第57回】

【競馬クロニクル】
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 ジョッキーを仕事にしたなら、誰しもが一度は勝ちたいと思うのがダービーだ。しかしダービージョッキーになれるのは、毎年ただ一人。いかに名人・名手と言われても、強い馬との巡り合わせはもちろん、運にも恵まれなければ勝てるものではない。

 たとえば、現役時代にはスマートな立ち居振る舞いで人気を博し、初めて年間100勝を記録するなどジョッキー界の頂点を極めて“ミスター競馬”と呼ばれるほどの評価を受けていた野平祐二でさえ、ついに日本ダービーを勝つことなくターフを去っている(その後、1984年にシンボリルドルフの調教師として勝利を挙げている)。

 落馬などで騎乗ができなくなった場合を除けば、騎手が現役を続けられる期間は、他のスポーツとならべると比較的、長い。武豊(55歳)や横山典弘(56歳)は特別だとしても、ことし45歳を迎えたクリストフ・ルメールの卓越、円熟した騎乗ぶりを見ても分かるとおりである。

 とはいえ、いかに実績を挙げ、名声を得たジョッキーであっても、ダービーを勝った経験がないままに四十路の声を聞くと次第に焦りが出てくるのも当然だ。仮にダービーに出場したとしても、その世代に生産された7000~8000頭のなかの“テッペン”を極める馬に跨っている確率は驚くほど小さいからだ。

 JRAのリーディングジョッキーに3度輝き、1988年には当時の最年少記録である33歳3カ月で通算1000勝を達成した“関西の至宝”こと河内洋も、ダービーのタイトルに無縁なまま四十路の声を聞いたトップジョッキーの一人である。

 デビュー6年目の1979年にアグネスレディーでオークス(G1)を制したのを皮切りに、三冠牝馬メジロラモーヌ、マイル王のニホンピロウイナー、サッカーボーイ、中央への移籍初年度のオグリキャップ、ダイイチルビー、ニシノフラワー、アグネスフローラなど、枚挙に暇がないほど多数の歴史的名馬に跨ってきた希有な名手の河内。しかし1990年代までは、1979年の初騎乗(25着!)から16回の出場で掲示板に載ったのが4回(1986年-4着、1989年-5着、1996年-3着、1998年-2着)が善戦したほう、といったところ。ちなみに1986年(ラグビーボール)、1988年(サッカーボーイ)、1989年(ロングシンホニー)で1番人気馬に乗ったことはあるが、勝利できずに終わっている。

 2000年、ついに河内のもとに運命の馬が現れる。自身に初のビッグタイトルを授けてくれたアグネスレディーを祖母とし、母に桜花賞馬のアグネスフローラを持つ牡馬のアグネスフライト(父サンデーサイレンス)こそがその馬だった。

 脚元の弱さがあってデビューは3歳の2月までずれ込んだが、その新馬戦(京都・芝1600m)で2着に4馬身差を付けて圧勝。次走には2着までに入れば優先出走権が与えられる皐月賞(G1、中山・芝2000m)のトライアルレース、若葉S(OP、阪神・芝2000m)に出走したが、不調がたたって12着に大敗し、陣営は皐月賞を諦めて、日本ダービー(G1、東京・芝2400m)へと目標を切り替えて立て直しをはかった。

 1カ月後の4月には若草S(OP、阪神・芝2200m)を差し切りで快勝。しかし、ここまでの収得賞金ではダービーの除外対象となる可能性が高いことが判明。京都新聞杯(G3、京都・芝2000m)へ向かい、収得賞金が得られる2着以内を目指すこととなった。強行軍が心配されたものの、アグネスフライトは最後方から徐々に位置を押し上げると、直線で10頭ほどをごぼう抜きにして優勝。堂々と最大の目標へと歩を進めていった。

 京都新聞杯から中2週で迎えた日本ダービー。1番人気は、破竹の勢いで次々とJRAの騎手記録を更新し続ける河内の弟弟子、武豊が手綱をとる皐月賞馬エアシャカール。皐月賞でエアシャカールにクビ差の2着に粘ったダイタクリーヴァが2番人気となり、アグネスフライトはそれに続く3番人気に推されてレースへ臨んだ。

 ダイタクリーヴァこそ中団をキープしたが、エアシャカールが後方の15番手を進めば、アグネスフライトはさらにその後ろ、17番手に控えて向正面に向かう。人気の2頭がここまで大胆に控えていて大丈夫なのかとスタンドがザワつくなか、第3コーナーすぎからエアシャカールが馬群の外へと持ち出して徐々に位置を押し上げると、アグネスフライトもそれにやや遅れながらも進出を開始して直線へと向く。

 インの混沌とした競り合いを他所に、外から鋭い脚色で伸びてきたエアシャカールが人気薄のアタラクシアを交わして先頭に躍り出る。しかし、その外からひたひたと迫っていたのがアグネスフライト。とはいえ、残り200m付近でまだ3馬身ほどの差があったが、アグネスフライトは河内の魂が乗り移ったかのように強靭な末脚でエアシャカールを追い詰め、残り50m付近からは2頭は馬体を併せて激しいマッチレースを繰り広げた。

 兄弟子と弟弟子による叩き合いは馬体がぶつかり合うほどの激闘となり、肉眼ではどちらが先かまったく判別がつかないほどにもつれ合ってゴール。勝負は写真判定に持ち込まれるが、アグネスフライトの河内は、並んでゴールした直後の武に「おめでとうございます」と声をかけられて勝利を確信し、スタンドに向かって右手を伸ばすように喜びを表現した。それまでどんなビッグレースでも馬上では見せたことがなかった河内としては極めて異例のこと。“関西の至宝”とまで呼ばれた男が精一杯に喜びを表した地味ながら美しいアクションだった。

 結果、2頭の着差は「ハナ」と表示されたが、非公式ながらJRAがマスコミに伝えた差は約7cmしかなかったという。

 河内の出場17回目での日本ダービー優勝は、柴田政人の19回目に次ぐ記録(当時)で、45歳3カ月での勝利は史上4位の年長だった。

 日本ダービーの翌週、栗東トレーニング・センターを訪れると、河内は調教の合間時間を過ごす定位置であるスタンド内の喫茶スペースで軽妙な語り口から放たれる話で周囲を笑わせていた。

 その際、エアシャカールが射程内に入ったときはどんな気持ちだったかを訊ねたときのセリフが忘れられない。

「それはもう必死よ。こんなチャンスはもう無いやろうから、『あと100mで俺のダービーが終わってしまう』と思ぅてな」

 胸にグッときて、こちらが二の句が継げないでいると、「どや? 俺もなかなかええ話するやろ?」と冗談めかした言葉を発して筆者を笑わせた。これこそ“関西の至宝”が後輩たちに慕われる所以である。

 河内は翌年、アグネスフライトの全弟、アグネスタキオンで皐月賞に優勝。史上5人目となるクラシック競走完全制覇を達成し、ダービー連覇も“当確”と思われていたが、残念なことに左前浅屈腱炎を発症。現役を引退して種牡馬入りすることが決まり、壮大な夢は果たされなかった。

 ことほど左様に、ダービーを勝つことは超ド級の難事なのである。
(文中敬称略)

三好達彦

三好達彦

1962年生まれ。ライター&編集者。旅行誌、婦人誌の編集部を経たのち、競馬好きが高じてJRA発行の競馬総合月刊誌『優駿』の編集スタッフに加わり、約20年間携わった。偏愛した馬はオグリキャップ、ホクトヘリオス、テイエムオペラオー。サッカー観戦も趣味で、FC東京のファンでもある。

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