JRA 天皇賞(G1)にまつわる「7つの秘密」!? 年10回も開催、勝ち抜け制度……「盾」と呼ばれる理由から、皇室と競馬の関係まで!
ともに秋の天皇賞だが、2005年は14番人気のヘヴンリーロマンスで優勝した松永幹夫調教師(当時騎手)が、ヘルメットを抱えて馬上から最敬礼。
2012年にエイシンフラッシュで勝利したM.デムーロ騎手は、ウイニングラン後に下馬。芝コースから貴賓席に向かって、ひざまずいて一礼したシーンを覚えている競馬ファンも多いだろう。
ちなみにデムーロ騎手は、下馬した後に検量を受けたことで規定に違反したとして、決裁委員に怒られたという“秘密”エピソードも残っている。
さらに競馬観戦に訪れられた天皇陛下ら皇族と競馬との結びつきは、想像以上に深かった。
はるか昔の奈良時代後期にまとめられた「続日本紀」には、大宝元年にあたる西暦701年5月5日に、文武天皇が「走馬」をご覧になられたという“秘密”記録が残っている。
大宝時代以降も、この「走馬」は「競馬(くらべうま)」と詠(うた)われるなど、数多くの書物に記されており、天皇賞のルーツを調べる途中で、競馬の語源は今から1,300年以上も前に存在していたという予想外の“秘密”も明らかになった。
最後の7つ目の“秘密”として紹介したいのが、今では考えられない昔の天皇賞のルールについて。
実は昔の天皇賞は勝ち抜き制で、春でも秋でも一度優勝すると、再び天皇賞には出走できないというルールがあったことは、あまり知られていない。
これは前出の「帝室御賞典」の時代から、意外と最近の1980年まで存在していた独自ルール。日本競馬界の最高位レースであり、一度でも天皇盾を手にした馬は、二度と天皇賞で走ることは許されなかった時代があったのだ。
大相撲の世界では、最高位の横綱に昇進した後は、弱くなればただ引退するのみ……というルールがある。競馬界と世界は異なるものの、天皇賞優勝馬と横綱は同レベルであり、一度でもその道を極めたら、あとは去るのみということか。
いずれにせよ、予期せぬ非常事態宣言によって2年連続で無観客競馬での開催となってしまった春の天皇賞。古くは明治時代から、昭和時代の戦後の苦難を乗り越えて、現代へと襷(たすき)を繋いできた伝統の一戦でもある。
現代に生きる我々競馬ファンとして、このような状況下でもゲートが開くことに感謝しながら、その襷を絶やすことなく、しっかりとゴールまで見守りたい。