JRA七夕賞(G3)で名を上げた孤高の“逃亡者”たち! ツインターボの「3年後」に現れたマルゼンスキー産駒の“暴れ馬”とは!?
11日、福島競馬場では中距離ハンデ重賞の七夕賞(G3)が行われる。過去の名シーンで欠かせないのが1993年ツインターボの逃亡劇だろう。
前半3ハロン33秒9というハイラップを刻んだツインターボ。そのスピードは最後まで衰えず、2着に4馬身差をつけ、前年のラジオたんぱ賞(現ラジオNIKKEI賞)に次ぐ重賞2勝目を飾った。
ツインターボは8歳夏まで、5年半に渡る競走生活を続け、中央で22戦、地方でも12戦した。また、中央ではデビューから一度も他馬にハナを譲ることなく、常に玉砕的な大逃げを打ったこともあって人気を博した。
93年のツインターボ以降、七夕賞で逃げ切り勝ちを収めた馬は5頭。そのうちの1頭が96年の覇者サクラエイコウオーだ。ツインターボの逃亡劇から3年後、その年の福島競馬場はスタンドの解体と全面改修工事のため年間を通して競馬が開催されなかった。
代替で開催されたのは中山競馬場。サクラエイコウオーは3歳時に同じ中山2000mの弥生賞(G2)を勝っており、重賞2勝はどちらも同じ舞台であった。サクラエイコウオーもまた、個性派の逃げ馬としてファンから高い人気を得ていた。
その破天荒なレースぶりも人気の理由だった。その片鱗を見せたのはデビュー戦。ツインターボの七夕賞からちょうど2か月後の93年9月11日。舞台は中山芝1200mだった。小島太騎手を背に単勝1.4倍の1番人気に支持されたサクラエイコウオー。道中は2番手を追走し、誰もが勝利を確信したその瞬間、4コーナーを曲がりきれず、まさかの逸走。結局ゴールまでたどり着けず、まさかの競走中止という現役スタートを切った。
幸いケガなどはなく、サクラエイコウオーは翌月の未勝利戦に出走。ここではスピードの違いでハナを切り、難なく初勝利を飾った。しかし、その後も破天荒ぶりは続く。京王杯3歳S(G2)では、直線で内ラチに接触して5着に敗退。4戦目の赤松賞(500万下)を楽勝すると、陣営は朝日杯3歳S(G1)に挑戦する。しかし、デビュー戦以来の中山で、前半3ハロン34秒2という暴走気味のハナ争いを演出。案の定、直線で失速し、しんがり14着に大敗を喫した。この時、先頭でゴールを駆け抜けたのが後の三冠馬ナリタブライアンである。
サクラエイコウオーはその後、成績は安定。年明け3戦目の弥生賞で強敵相手に逃げ切って、皐月賞(G1)では3番人気に支持されていた。しかし、ここでも再び悪い癖が出てしまう。道中完全に折り合いを欠く形で暴走し、8着と実力を発揮できず。朝日杯3歳Sに続き、ナリタブライアンの引き立て役となってしまった。
続く日本ダービー(G1)で11着に敗れた後は、もともと抱えていた脚部不安もあり、長期休養に入る。翌年には1走しただけで、ようやくレースに使えるようになったのが5歳春だった。
復帰戦こそオープン特別で2着に好走したが、続く2戦は2桁着順に惨敗。「もう終わった馬」という声が聞こえる中、5番人気で迎えたのが七夕賞だった。
騎乗したのは当時まだデビュー2年目、21歳の西田雄一郎騎手。前半3ハロンは34秒3というハイペースだったが、4ハロン目から13秒2、12秒7とうまくペースを落とし、4コーナーを回った時は余裕しゃくしゃくの手応え。最後は3年前のツインターボと同じ4馬身差をつけて、復活の勝利を飾った。
その後は中距離路線で活躍が期待されたが、再び脚部不安を発症。陣営の必死の立て直しも実らず、この七夕賞が現役最後のレースとなってしまった。
常に脚部不安を抱えての現役生活を送ったマルゼンスキー産駒サクラエイコウオー。重賞は2勝だけに終わったが、型に嵌ったときは世代でも屈指の破壊力を誇った。そして、そのポテンシャルを最後に知らしめたのが25年前の七夕賞だった。
(文=中川大河)
<著者プロフィール>
競馬ブーム真っただ中の1990年代前半に競馬に出会う。ダビスタの影響で血統好きだが、最近は追い切りとパドックを重視。