JRA【観戦記】サクラバクシンオーに日本競馬の未来を見た1994年スプリンターズS(G1)

 JRAで2つしかないスプリントG1のスプリンターズSは、高松宮記念よりも歴史の深いレースである。創設されたのは1967年で当初はハンデ重賞からスタート。その後グレード制が始まった1984年にG3となり、1987年にG2、そして1990年からG1レースとして施行されるようになった。

 G1格上げ以前は3月の中山、G1格上げ後は有馬記念の1週前に行われていたが、高松宮記念(高松宮杯)が芝1200mのG1レースに格上げとなる番組改編の影響で、2000年から4回中山最終週、つまり秋競馬最初のG1レースとして行われるようになったのである。

 過去の優勝馬はニシノフラワー、フラワーパーク、タイキシャトル、ヒシアケボノ、ビリーヴ、カレンチャン、レッドファルクス、ロードカナロア、グランアレグリアなど日本の短距離界を賑わせた快速馬がズラリ。

 その中でも、どのファンにとっても忘れられない存在が1993年と1994年で連覇を果たしたサクラバクシンオーであろう。

 同馬の父サクラユタカオーは天皇賞(秋)をレコードタイムで勝利するなど、中距離で活躍した名馬。その血を受け継いだサクラバクシンオーは、境勝太郎厩舎で管理されデビューから類まれなるスピードを見せつけた。

 新馬戦の中山ダート1200mを1分11秒8で圧勝、そして3歳春の芝1200m重賞クリスタルカップ(G3)を勝利。適距離とは言えなかったマイル戦以上では結果が出なかったが、1200~1400m戦に関して言えば3歳(当時4歳表記)で挑戦したスプリンターズSで6着に敗退した以外はすべて勝利、12戦11勝という結果を残している。

 今のように高松宮記念や香港スプリント、そしてサマースプリントシリーズがなく、また1200mの重賞レースも少なかったのだから、現代に産まれていれば、どれほど多くのビッグレースを勝利しただろうか……。

 サクラバクシンオーが初めてスプリンターズSを勝利したのは古馬になった4歳暮れの1993年12月。1番人気はその年の安田記念と天皇賞(秋)を制したヤマニンゼファーだったが、同馬に影も踏ませず先行押し切りで快勝。2着ヤマニンゼファー、3着ニシノフラワーという結果だった。

 そして忘れもしない、今も脳裏に焼き付く衝撃のレースが、1994年のスプリンターズSである。

 サクラバクシンオーにとって引退レースでもあったこのスプリンターズSは、この年より国際競走に認定され、外国から3頭の強豪が出走。その大将格アメリカのソビエトプロブレムは、ここまで18戦14勝、そしてブリーダーズCスプリント(G1)で2着の実績もあり、開放初年度から「最強外国馬が来日」と大きな話題になった。

 同じくアメリカから来日し、岡部幸雄騎手が騎乗したオナーザヒーロー、京王杯SC(G2)で2着の実績があり武豊騎手が騎乗したイギリスのザイーテンが揃い、まさに国際競走に相応しい顔ぶれとなったのである。

 1981年に創設された国際招待競走のジャパンC(G1)は、当初日本馬がまったく歯が立たず、一流とは言えない外国馬が勝利していた。そういった経緯もあり、このスプリンターズSも外国馬に大きな注目が集まったが、蓋を開ければ1番人気はサクラバクシンオー。やはり地の利は大きく、1200m戦と鞍上・小島太騎手への信頼もあり、日本最強スプリンターとして堂々の支持を集めた。

 また当時の出走馬はさらに個性的な面々が揃った。

 当時はどの路線にも、絶対的な“逃げ”を身上とする馬が数多く存在していた。その馬は2番手や3番手でも競馬ができるといった甘い考えではなく、何が何でも逃げることにプライドを持っていた。「競りかけてきたら潰す」「誰が来てもハナは譲らない」、そんな信念を持った厩舎関係者のプライドが、多くのレースを盛り上げてきた。

 この1994年のスプリンターズSには、まさにそんな逃げの矜持を掲げる快速馬が集結。中でもエイシンワシントン、ホクトフィーバス、ヒシクレバー、マルタカトウコウの4頭は屈指の逃げ馬であり、その展開はまさに激流と呼べるものであった。

 レースは好スタートを決めたホクトフィーバスに、内からヒシクレバーとマルタカトウコウが競りかけて3頭が並ぶ空前のハイペース。前半600mの32秒4は、今の高速馬場なら珍しくはないが、以前の芝でしかも12月の荒れた馬場でのものだから、やはり速すぎる。

 4番手に控えたエイシンワシントン、そしてその4頭を見る形でサクラバクシンオーとソビエトプロブレムが追走してレースは進む。驚くべきは、やはりサクラバクシンオー。このハイペースを難なく差のない位置取りで追走し、4コーナーではすでに前を行く馬を射程圏に捉える。

 一方で2番人気のソビエトプロブレムはコーナリングがぎこちなく、外に膨れてしまう。これは戦前も懸念された、右回りの経験の差が出たといえるだろう。そんな後続を尻目にサクラバクシンオーは直線抜け出し、最後は抑える余裕を見せて1着でゴール。勝ち時計1分7秒1はレコードタイム、2着ビコーペガサスに付けた4馬身差は圧倒的なものであった。

 終わってみれば完勝。10回やっても10回ともサクラバクシンオーが勝利すると、誰もが感じたほどの圧勝劇だったのは間違いない。2番人気ソビエトプログラムは7着、8着にオナーザヒーロー、9着にザイーテンと外国馬は大敗。

 そして激しい逃げ争いを演じた3頭はすべて10着以下に敗退という衝撃的な結末だった。サクラバクシンオーが記録した上がり34秒4はレース最速。これだけのハイペースを先行した馬が上がり最速なのだから、やはりその実力は一つも二つも抜けていたのだろう。

 その後JRAでは番組改革が進み、春の高松宮記念と秋のスプリンターズSという短距離路線が整備された。それに伴い多くの短距離G1馬が誕生、中でも香港スプリントで連覇を達成したロードカナロアは、世界の短距離王として輝かしい実績を残した。

 しかし、日本のサラブレッドが世界で通用するスピードを最初に見せたのは、やはり1994年のサクラバクシンオーである。あのレースを目の当たりにした競馬ファンは、日本競馬が世界で通用する未来を見たに違いない。

 今週行われるスプリンターズSは55回目を迎え、ダノンスマッシュ、レシステンシア、モズスーパーフレア、クリノガウディーといった実力馬が出走。その中にはサクラバクシンオーの血を引くピクシーナイトやファストフォース、ビアンフェといった馬もいる。

 今年はサクラバクシンオーが亡くなってから10年になるが、今もなお同馬は日本競馬の礎となって生きているのだ。

(文=仙谷コウタ)

<著者プロフィール>
初競馬は父親に連れていかれた大井競馬。学生時代から東京競馬場に通い、最初に的中させた重賞はセンゴクシルバーが勝ったダイヤモンドS(G3)。卒業後は出版社のアルバイトを経て競馬雑誌の編集、編集長も歴任。その後テレビやラジオの競馬番組制作にも携わり、多くの人脈を構築する。今はフリーで活動する傍ら、雑誌時代の分析力と人脈を活かし独自の視点でレースの分析を行っている。座右の銘は「万馬券以外は元返し」。

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