「空前の競馬ブーム」巻き起こしたオグリキャップ…ぬいぐるみはバカ売れ、見学ツアーも大人気、「ビジネスチャンス」生かしたオーナーの慧眼【競馬クロニクル 第64回】

競馬クロニクル 第64回

 1990年12月23日、いまなお中山競馬場の入場人員レコードとして残る17万7779人ものファンを集めて行われたグランプリ・有馬記念(G1)。オグリキャップは世界最大の売上を誇るモンスターレースを舞台に、熱狂的な「オグリ・コール」に包まれて引退の花道を自ら飾った。それまであった競馬の歴史や常識をいくつも引っ繰り返したこの芦毛の怪物の魅力は、競走生活を終えても尽きることがなく、また新たなトレンドセッターとしての存在感を発揮し続ける。

オグリキャップが巻き起こした空前の競馬ブーム

 そうしたオグリキャップの桁外れの魅力を、良くも悪くもとことんまで吸い上げ、ファンの前に提示し続けたのは、公営・笠松競馬から中央への移籍を仕掛けた二代目オーナーの佐橋五十雄だった。

 日本では現役競走馬の売買は数少ないが、海外ではごく普通のディールである。売買を積極的に行った佐橋のスタンスをもって“変わった馬主”と見ることが正しいとは言い難い。本当に佐橋がユニークだったのは、彼がオグリキャップを競走馬として賞金を稼ぐだけではなく、“巨大な商材”と認識していたことである。

 一般的に知られている佐橋の商活動は、オグリキャップのぬいぐるみ販売だろう。それまで競走馬のぬいぐるみが競馬グッズとして広く売られることはなかったが、競馬ブームに乗って女性ファンが急激に増加するトレンドに乗って、ぬいぐるみは爆発的にヒット。観戦みやげとして買われるものだけではなく、オグリキャップの応援グッズとして競馬場へ持ってくる人も珍しくなかった。

 このオグリキャップの、また人気競走馬のぬいぐるみのブームが起きたのは偶然と言えるかもしれない。というのも、佐橋がこうしたアイデアを思い付いたのは、ぬいぐるみの卸売りを行う会社の代表取締役社長を務めていたことに起因するからである。このあと佐橋はオグリキャップのみでなく、人気馬の肖像権に関する許諾を受けて、ぬいぐるみの生産・卸売りを拡大。ヒット商品の仕掛け人として巨大な富を手に入れる。

 競走馬のぬいぐるみが競馬グッズの人気商品として揺るがぬポジションを得ている現在だが、そのスタートは1980年代の終盤、オグリキャップの出現にあった。

 そしてもう一つ忘れてならないのは、北海道への“見学ツアー”を一気にファンのあいだへ拡散したことだろう。

 いまでは夏場に北海道へ旅行し、千歳地区から日高地方へ向かって種牡馬や引退した名馬を見学するのは競馬ファンにとってごく一般的なことになっているが、オグリキャップが現役を引退し、日高で種牡馬入りするまで“見学ツアー”に出かけるファンはマニアックな人にのみ限られたものだった。

 一時、オーナーの佐橋は馬主資格を失った(のちに再取得)。しかしオグリキャップを2年にわたって他の馬主へ“リース”するという変則的な形で手放し、実質的な所有権をキープし続けた。

 そして、伝説的な有馬記念を終えて現役を引退したオグリキャップは京都競馬場、東京競馬場に加えて、“故郷”である笠松競馬場でも引退式を行うという派手なデモンストレーションをして、1991年1月末に北海道・新冠町にある優駿スタリオンステーションへとスタッドインする(ちなみに笠松での引退式は、最初のオーナーである小栗孝一との約束を果たしたものであったという)。この際には数百人が出席する歓迎セレモニーが行われ、その様子は競馬マスコミのみならず、一般紙誌、テレビニュースやワイドショーでも取り上げられた。

 こうしてオグリキャップは、総額18億円とも言われる大型のシンジケートが組まれた種牡馬であると同時に、強大な吸引力を持つ“観光資源”として扱われることになった。

 繋養された優駿スタリオンステーションでは、見学者が見やすいよう道路に面した場所に放牧場がセッティングされた。これは本来、静かな環境で過ごさせることが重視されていた馬産地の常識を破る異例の対応だった。そして、ゴールデンウィークや夏の旅行シーズンには個人旅行で訪れたディープなファンに加え、観光バスで乗り付けたライトファンも含めて、1日数千名もの人がオグリキャップをひと目見ようと押し掛けた。そして道路をはさんで向かい側にはグッズショップが設えられ、“オグリ・グッズ”は飛ぶように売れた。最初は小ぶりなポーションだったショップは予想を超える人気を博したため、のちに本格的な建物へとリニューアルされた。

 あえて強い言葉を使うと、それはあまりにグロテスクな光景だった。

 過熱する一方の“フィーバーぶり”のなか、種牡馬入りして半年が経った7月末、白い怪物を病魔が襲う。馬房でぐったりしたオグリキャップは、発熱、咳など風邪のような症状を見せて治療を受けたが、1カ月以上が経ってもカイバ食いが落ちて水も飲めなくなるほどに症状が悪化する。その時点で「喉嚢炎(こうのうえん)による咽頭麻痺」と診断され、ノドの重病に罹患したことが判明。見学中止の措置が取られて、医師のチームによる治療が続けられた。しかしオグリキャップは9月、喉嚢に近い頸動脈が破裂によって大量の出血を起こし、生死の境をさまようことになる。それでも十数リットルも輸血されるなど懸命の治療が施された甲斐あって、生命の危機は脱出。翌月には放牧が再開されるまでに回復した。

一大フィーバーの裏で新たな問題も

 この一件は大きな波紋を巻き起こした。

 来る日も来る日も近い距離で多くの人目にさらされるストレスも病気の一因になったのではないかという推察に基づく批判が起こった。また、サラブレッドというデリケートな面を持つ生き物に対するリスペクトが欠けているという声も少なくなかった。

 オグリキャップの北海道凱旋が“馬産地見学”を一般化するきっかけになったのは確かだが、一方で自身が身をもってその“行き過ぎ”に警鐘を鳴らしたのがこの一件の大きな意義と言えるだろう。

 その後、馬や牧場に対する見学者の不作法が何度も問題となりつつも、馬産地見学は競馬ファンの楽しみの一つとして浸透し、人気種牡馬が多数繋養されている安平町の社台スタリオンステーションが見学を解禁し、千歳空港にほど近い広大な土地につくられた、引退名馬に会える観光施設のノーザンホースパークが開場するにいたって、牧場見学は日本競馬とは切っても切れないカルチャーとして根付くにいたったのである。

 こうして振り返ると、オグリキャップがイチ競走馬としてのみならず、一種のインフルエンサーとしての影響力の大きさをあらためて感じさせられるのである。
(文中敬称略)

三好達彦

1962年生まれ。ライター&編集者。旅行誌、婦人誌の編集部を経たのち、競馬好きが高じてJRA発行の競馬総合月刊誌『優駿』の編集スタッフに加わり、約20年間携わった。偏愛した馬はオグリキャップ、ホクトヘリオス、テイエムオペラオー。サッカー観戦も趣味で、FC東京のファンでもある。

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