オジュウチョウサンの「殿堂入り」は何故、極めて難しいのか。JRAの手に余った障害王グランドマーチスの伝説

 中山大障害を4連覇、障害レースだけで19勝を上げた戦績も然ることながら、まずは本馬が今年10月に見事殿堂入りを果たしたキタサンブラックと「共通」する大記録を成し遂げた事実を挙げておきたい。

 キタサンブラックといえば、引退レースとなった有馬記念(G1)の勝利によって世紀末覇王テイエムオペラオーの歴代最高賞金記録を塗り替えたことでも有名だ。グランドマーチスが成し遂げたことが、まさに「それ」である。

 現在とは賞金体系が異なっているとはいえ、障害馬が平地馬を含めた歴代最高賞金記録を塗り替えるというのが異例中の異例だというのは、想像に難しくないだろう。当然ながら、日本の障害馬ではグランドマーチスが唯一無二の存在だ。

 具体的に述べると、世に”第1次競馬ブーム”を巻き起こしたハイセイコーの記録を抜いて、史上初の3億円ホースとなったのがグランドマーチスなのだ。

 その偉業の裏には、もちろん明確な「理由」がある。これは障害馬が平地馬よりも評価されなかったり、賞金王になれない原因にも起因するのだが、今も昔も競走馬がジャンパーに転向するのは平地レースで”頭打ち”になった場合がほとんどだ。

 しかし、グランドマーチスの場合は平地の万葉Sを制し、念願のオープン入りを決めた僅か2か月後に障害馬としてのデビュー。障害未勝利戦からやり直している。平地の初勝利こそダート1400mだったが、初の3000mの万葉Sでステイヤーの素質が開花。この時代の天皇賞は春も秋も3200m。本来なら、ここから天皇賞馬になってもおかしくはなかったはずだ。

 だが実は、本馬が急遽障害入りを果たしたことには、この時代ならではの理由があった。

 グランドマーチスを管理していたのは、スーパークリークなど数々の名馬を手掛けた名伯楽・伊藤修司調教師。当時、その伊藤厩舎の所属としてデビューした新人の寺井千万基は、騎手としては体重が重く、障害レースでしか騎乗できなかったのだ。

 それにもかかわらず、当時の伊藤厩舎に障害馬がいない。新人騎手の面倒を積極的にしっかり見る風習があった時代であり、状況を重く見た伊藤調教師が白羽の矢を立てたのがグランドマーチスだったのだ。

 無論、平地馬として脂が乗ってきたグランドマーチスをあえて選んだことには根拠があった。姉が障害で3勝を上げていたことも然ることながら、実は祖母のハクレイが牝馬ながらに中山大障害を勝つほどの名ジャンパーだったからだ。

 つまり、グランドマーチスのステイヤーの資質は母方の血が強く影響しており、本馬は平地馬としてだけでなく、障害馬としてはさらに”良血馬”だったということだ。

 幸い、オーナーの大久保常吉(名義は大久保興業)氏と伊藤調教師は皐月賞馬マーチスの成功などを経て、深い信頼関係で結ばれていた。そもそも、このグランドマーチス自体がマーチスのような成功を意識して名付けられたという説もある。

 そんな間柄だったからこそ、オーナーもグランドマーチスの障害転向を快諾。まさに昔ながらの人と人の繋がりが生んだ異例の転向劇だったが、これが後に歴史的な成功を生んだというわけだ。

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