JRA「ルメール無双」も霞む武豊の超VIP待遇。ビワハイジ、エアグルーヴ、イブキパーシヴ「三股」でも最後に笑う男の無敵ぶり【特別追悼寄稿】
25日、1995年に最優秀3歳(現2歳)牝馬を受賞したビワハイジが老衰のため亡くなった。29歳だった。
阪神3歳牝馬S(現ジュベナイルフィリーズ、G1)を勝利した名牝だが、繋養先のノーザンファームの中島文彦氏がJRAの公式HPを通じ「ブエナビスタをはじめ、多数の活躍馬を産んでくれたことに感謝の気持ちでいっぱいです」とコメントした通り、ビワハイジの名がより一層高まったのは、むしろ現役引退し繁殖牝馬となってからだ。
G1・6勝のブエナビスタを筆頭に、ジョワドヴィーヴルなど計6頭に上る重賞ウィナーを輩出。同世代で年度代表馬まで上り詰めたエアグルーヴとしのぎを削った間柄だが、競走馬としては後れを取ったものの、繁殖牝馬としてハイレベルな争いを繰り広げるなど、生涯を通じたライバルと言っていいだろう。
また現役時代、グレード制導入以降では牝馬として初めて日本ダービー(G1)に挑戦したビワハイジ。結果は13着だったが、ウオッカによる歴史的勝利や、昨年のサトノレイナスの挑戦など後進の礎になったことは間違いない。様々な形で長く競馬界に影響を与え続けた存在といえる。
今回の訃報で、改めてビワハイジとの記憶を思い起こしているオールドファンも数多いだろう。
だが、筆者が最も印象に残っているのは、当時の武豊騎手の“無双”ぶりだ。
史上初の牝馬によるグランプリ3連覇を成し遂げ、昨年引退したクロノジェネシスだが、主戦の北村友一騎手が負傷離脱した際、その代役として新たな主戦に抜擢されたのがNo.1ジョッキーのC.ルメール騎手だった。
当時は、まさに“鬼が金棒を手にした”とあって一部のファンからは「ズルい」「強奪」など、ルメール騎手を非難する声もあった。だが当然ながら、陣営としては文字通り「最善」の選択をしたに過ぎない。
しかし、ビワハイジが現役の頃の武豊騎手の引っ張りだこぶりと比較すれば、今のルメール騎手など可愛いものである。
ビワハイジといえば主戦の角田晃一騎手とのコンビが印象深いが、実は1995年のデビュー戦、札幌3歳S(現2歳S、G3)と連勝に導いたのは武豊騎手である。今なら当然、コンビ継続のまま2歳女王決定戦に挑戦するのが定石だが、当時の同騎手はまさに選り取り見取りだった。
ビワハイジが札幌3歳Sを快勝した同日、同じ札幌競馬場で武豊騎手を背に、単勝1.1倍で新馬戦(2戦目)を勝ち上がったのがエアグルーヴである。その後、同コンビはいちょうS(OP)で大きな不利を受けながらも牡馬を相手に快勝。スケールという点ではビワハイジを超えていただけに、武豊騎手が本馬と2歳女王決定戦に進んでも何らおかしくはなかった。
しかし、武豊騎手が最終的に選んだのは新馬戦、りんどう賞(当時500万下)を危なげなく勝ち切ったイブキパーシヴ。騎手界の絶対王者がビワハイジ、エアグルーヴを差し置いてこの馬に乗るとなれば、本番でファンが1番人気に支持するのも当然だろう。
だが、結果はご存知の通りビワハイジが勝利し、エアグルーヴが2着。イブキパーシヴは3着に敗れるという武豊騎手にとっては皮肉な結果だった。
「並みのスーパージョッキー」という言葉もどうかと思うが、例えば今のルメール騎手なら、ここで“ルメール劇場”も閉幕だろう。昨年はオーソクレース、一昨年はワーケアを選択して牡馬クラシックで出番がなかったように、さしものルメール騎手でも無理な時は無理なのである。
しかし、当時の武豊騎手は、やはりスーパーを超えるスーパーだった。
翌1996年1月にイブキパーシヴでクイーンC(G3)を勝利し、同コンビで4月の桜花賞(G1)へ向かうものと見られていた。実際に3月のチューリップ賞(当時G3)から始動したエアグルーヴの鞍上には、武豊騎手ではなくO.ペリエ騎手の姿があったのだ。
だが、ここでエアグルーヴはビワハイジらを相手になんと5馬身差の圧勝を飾り、一気に牝馬クラシックの中心に躍り出る。そして浮上するのが、短期免許で帰国するO.ペリエ騎手に替わる鞍上問題だ。
「いやいや、まさか……」と思わず言いたくなるシチュエーションだが、ここで何事もなかったかのようにお鉢が回ってくるのが、当時の「武豊」という存在だった。桜花賞でエアグルーヴとのコンビ復活が決まると、イブキパーシヴには南井克巳騎手が騎乗することになった。
まさに「終わり良ければ総て良し」と言わんばかりに桜花賞を迎えた武豊騎手だったが、直前にエアグルーヴが熱発で回避する、まさかのアクシデント……。さらに翌週の皐月賞(G1)でも騎乗予定だったダンスインザダークが熱発で回避。
これには当時、“絶対無敵”の武豊騎手をもってしても「風邪が流行ってるみたい」とコメントする他なかった。
その後、エアグルーヴはオークス(G1)でダイナカールとの母娘2代制覇を達成し、その翌年には天皇賞・秋(G1)が2000mになって以降初の牝馬優勝を飾る。さらにその後、牝馬としては26年ぶりの年度代表馬に選出されるなど、武豊騎手としても溜飲の下がる思いだっただろうが、それらはもう少し先の話だ。
あれから20年以上の年月が経ち、ビワハイジがエアグルーヴの元へ旅立った。今では主戦だった角田晃騎手は調教師になり、その息子・大和が若手騎手として奮闘している。昨年の2歳女王サークルオブライフの母父には、産駒で種牡馬になったアドマイヤジャパンの名も刻まれているなど、その影響力は未だ健在だ。
ちなみに本馬の母アグサンの妹が、マンハッタンカフェやエアスマップを輩出した名牝サトルチェンジである。競走馬としてだけでなく、繁殖牝馬としても本当に偉大な存在だった。どうか安らかに。
(文=浅井宗次郎)
<著者プロフィール>
オペックホースが日本ダービーを勝った1980年生まれ。大手スポーツ新聞社勤務を経て、フリーライターとして独立。コパノのDr.コパ、ニシノ・セイウンの西山茂行氏、DMMバヌーシーの野本巧事業統括、パチンコライターの木村魚拓、シンガーソングライターの桃井はるこ、Mリーガーの多井隆晴、萩原聖人、二階堂亜樹、佐々木寿人など競馬・麻雀を中心に著名人のインタビュー多数。おもな編集著書「全速力 多井隆晴(サイゾー出版)」(敬称略)