中京記念で復活V「バラ一族」期待馬が遂げた悲劇の死
24日、第70回中京記念(G3)が小倉競馬場の芝1800mで行われる。
中京で開催される重賞の中では最も古い歴史を持つ中京記念。1953年に中京開設記念として創設され、翌年から現在の名称となった。
中京競馬場がリニューアルされた2012年に夏の中京マイルが舞台となったが、それまでは基本的に春の中京2000mという条件で定着していた。オールドファンには「中京記念=中距離」のイメージがまだ残っているかもしれない。
中京記念がまだ2000mで行われていた07年。改修前だった中京競馬場の芝2000mを1分56秒9で走破した馬がいる。当時のコースレコードを叩き出し、改修されるまでレコードホルダーの地位を維持したのがローゼンクロイツだった。
父は種牡馬として晩年を迎えていたサンデーサイレンス、母はロゼカラーなので、いわゆる「バラ一族」の一員である。一族にとって悲願のG1制覇を託され、ローゼンクロイツは3歳時に牡馬クラシック三冠に出走。皐月賞(G1)と日本ダービー(G1)にはどちらも4番人気、菊花賞(G1)は3番人気に推されていた。
「春のクラシックは皐月賞が9着、ダービーは8着で、いずれも人気を裏切りました。最も着順が良かったのは菊花賞で、馬券圏内の3着に食い込んでいます。ただし3つのレース全てで勝ち馬からは1秒以上離されていました。
この年の牡馬三冠レースを制したのは日本競馬界の最高傑作、ディープインパクトでした。ローゼンクロイツにとっては時代が悪かったといえますね。もし違う年に生まれていれば、クラシックでも主役級の1頭として、もっとスポットライトを浴びていた存在だと思います」(競馬誌ライター)
3歳春に毎日杯(G3)を制したローゼンクロイツだったが、クラシック戦線は同世代の怪物相手に全く歯が立たず。古馬となり迎えた初戦が4歳春に行われた06年の中京記念だった。
この時は柴山雄一騎手を背に4番人気で2着に好走。約3か月後の金鯱賞(G2)でも2着に入ったが、中京競馬場以外ではなかなか結果を残すことができなかった。
毎日杯を最後に勝利から遠ざかっていたローゼンクロイツ。久々の美酒に酔ったのが07年の中京記念。藤岡佑介騎手との初コンビで臨んだ一戦は、前走・京都記念(G2)でブービー13着に大敗したこともあって、4番人気に甘んじていた。
レースはテイエムプリキュアなどによる主導権争いが激化し、1000m通過が57秒3のハイペース。ローゼンクロイツは中団内目でリズム良く折り合いに専念した。勝負どころで鞍上が促すと、抜群の手応えで進出。直線で先に抜け出しを図ったシルクネクサスを交わすと、最後は後続に2馬身差をつけてゴールを駆け抜けた。
約2年ぶりの勝利をレコードのオマケ付きで挙げると、続く金鯱賞も勝利し、とんとん拍子で重賞3勝目を飾った。ところがローゼンクロイツは金鯱賞後に脚部不安を発症。秋には復帰を果たしたが、天皇賞・秋(G1)とジャパンC(G1)に連続で凡走すると、今度は全治3か月の骨折が判明。再び休養に入った。
翌年の復帰戦もやはり3月の中京記念だった。骨折明けにもかかわらず、それまでの“中京巧者”ぶりが買われて、堂々の1番人気に支持された。藤岡佑騎手も4角手前で早め先頭に立つ積極的な競馬で勝ちに行ったが、直線失速し、まさかの7着に終わった。
そして迎えた金鯱賞。前年と同じローテーションでここでも連覇を狙ったローゼンクロイツと藤岡佑騎手だったが……。最後の直線で左第1指関節脱臼を発症し、競走を中止。レース後に待ち受けていたのは予後不良の4文字だった。
「ローゼンクロイツが競走を中止したのは大勢のファンが見守るスタンド前でした。長く競馬を見てきた者なら一目見てどういう状態か分かるほどの症状でした。バラ一族にとって悲願のG1制覇を託された期待馬が得意の中京で悲劇の死を遂げるとは……。応援していたファンの一人としてしばらくショックから立ち直れませんでしたね」(同)
ローゼンクロイツを語る上で欠かせないラストランとなった金鯱賞での悲劇の死。しかし、その1年前に得意の中京で重賞を2連勝したことも決して忘れてはいけない。
07年中京記念で叩き出した改修工事前の中京芝2000mレコードタイムは今後も残り続ける。
(文=中川大河)
<著者プロフィール>
競馬ブーム真っただ中の1990年代前半に競馬に出会う。ダビスタの影響で血統好きだが、最近は追い切りとパドックを重視。