「欧州最強馬」ダンシングブレーヴの偉大な足跡!凱旋門賞ではシリウスシンボリとも対決…日本でもキングヘイローやキョウエイマーチらG1馬を多数輩出【競馬クロニクル 第62回】

競馬クロニクル 第62回

「日本に輸入された欧米の名馬は?」と訊ねられたら、あなたはどの馬を挙げるだろうか。

 米クラシック二冠に加え、ブリーダーズCクラシック(G1)にも勝って年度代表馬になったサンデーサイレンスが最上位に挙げられるのは当然だろう。また種牡馬としては失敗したが、欧州三冠を無敗で制した“神の馬”ラムタラも競走成績だけを見ればじゅうぶんに「名馬」の条件に達している。

 この2頭に加え、筆者は「1980年代の欧州最強馬」と言われるダンシングブレーヴを欠いてはならないと考えている。

アメリカ生まれの欧州最強馬の偉大な足跡

 ダンシングブレーヴは、父がノーザンダンサー(Northern Dancer)系のリファール(Lyphard)直仔で、1983年に米国のテイラーメイドファームにて生まれる。その後、イヤリングセール(1歳馬のセリ市)に上場すると、当時サウジアラビアの王子であったアブドゥラ殿下に20万㌦で落札され、英国のG.ハーウッド調教師に預けられた。

 2歳の10月にデビューしたダンシングブレーヴは非凡な能力を発揮し、キャリア4戦目にして英2000ギニー(G1、ニューマーケット・芝1600m)を圧勝。続く英ダービー(G1、エプソム・芝1マイル4ハロン6ヤード=約2420m)こそ道中でバランスを崩すアクシデントなどもあって2着に敗れるが、7月のエクリプスS(G1、サンダウン・芝9ハロン209ヤード=約2002m)、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(G1、アスコット・芝11ハロン211ヤード=約2406m)と、2戦連続で古馬を圧倒して優勝。次走は当然のごとく、フランスの凱旋門賞(G1、ロンシャン・芝2400m)へと矛先を向ける。これが40年近く経った今も“伝説的レース”として語り継がれることになる。

 序盤から後方でレースを進めたダンシングブレーヴは手応えよくフォルスストレートから直線へ入ったが、ここで前が壁になって行き場を失ってしまい、先行集団から後れをとった。普通はこれだけのロスがあれば勝負にならないものだが、彼は違った。馬群の大外へ進路を取り直してラストスパートをかけると持ち前の豪脚が爆発。次々と前の馬を飲み込み、ゴール前ではついに逃げ込みをはかる仏ダービー馬のベーリング(Bering)を捉えると、ゴールでは1馬身半差で突き抜けていた。走破タイムの2分27秒7は当時のトラックレコード。このときのパフォーマンスに付与されたレーティング141ポンドは過去最高値であり、今現在も破られていない。

【動画】1986年 凱旋門賞

 3歳で現役を引退したダンシングブレーヴは30数億円の大型シンジケートが組まれ、鳴り物入りで種牡馬入りした。しかし2年目のシーズンを終えてから、本来は鶏の伝染病であるマリー病(肥大性肺性骨関節症)に罹患。しばしば体調不良に見舞われながらも種牡馬活動を続けていたが、折も折。初年度産駒がまったくの期待外れに終わり、授精率も下がっていたことから、シンジケートは売却を模索するようになった。

 そうした流れのなかで、ダンシングブレーヴの売却を打診された相手の一つがJRAだった。値段は350万ポンド(当時のレートで約8億円)とリーズナブルだったが、マリー病という不治の奇病に冒されていること、初年度産駒が走っていないことなどから会内でも様々な議論が交わされた。反対する意見も強かったが、これだけの大物を手に入れるチャンスは滅多にないことから、受け入れる際に最善の医療体制を組むことを前提に購買を決定。1991年に輸入し、日本軽種馬協会へ寄贈。同協会の静内種馬場にスタッドインした。

 すると、思わぬ吉報が届いた。ダンシングブレーヴがマリー病に罹患したあと種付けし、英国に残してきた産駒のなかから英愛ダービーを制したコマンダーインチーフ、伊ダービーを制したホワイトマズルなど、次々と活躍馬が生まれたのだ(のちに両馬とも日本で種牡馬入りする)。

 このニュースを受けて、欧州のマスコミは「偉大な名馬を見切るのが早すぎた」「欧州にとって大きすぎる損失」と、日本へ輸出してしまったことに対する嘆きを報じた。

 とはいえ、ダンシングブレーヴの体調管理は簡単なことではなかった。気温のちょっとした変化で具合が悪くなったり(当時としては極めて稀なケースとして、馬房にエアコンが取り付けられた)、用いた抗生物質の副作用もしばしば彼の体を蝕んだ。体調によって頭数を制限していたため、年間20~50頭の種付けにとどまったが、それでも種牡馬活動を続けられたのは奇跡と言ってよい。これは体調が不安定になるたび厩舎に交代で泊まり込んで治療を施すなど、医療スタッフ、厩舎スタッフの歴史的名馬に対するリスペクトをモチベーションとする献身的な働きによるものだった。

 その思いに応えるかのように、80年代の、いや、オールタイムベストの1頭に数えられる名馬中の名馬は、病に苦しめられながら、日本でも活躍馬を送り出す。

 93年生まれのエリモシックがエリザベス女王杯(G1)を制覇。94年生まれのキョウエイマーチは桜花賞(G1)を制した。95年生まれのキングヘイローは高松宮記念(G1)に勝ち、98年馬のテイエムオーシャンは阪神3歳牝馬S(現・阪神ジュベナイルF)、桜花賞、秋華賞とG1を3勝した。

 また母の父としても優秀で、牡馬をなで斬りにした宝塚記念(G1)のほか、秋華賞、エリザベス女王杯を制したスイープトウショウ、皐月賞(G1)、日本ダービー(G1)、春秋の天皇賞(G1)を制するメイショウサムソンを血統面で大いにバックアップした。

 しかし、勇敢に病と闘い続けた彼にも最期のときが訪れる。1999年8月2日、体調が急変して死亡するが、苦しみながらも四肢を踏ん張っての“立ち往生”で旅立ったという。

 かつて日本は、ある英国の競馬評論家に「種牡馬の墓場」と蔑まれた。しかし、英国が見捨てた偉大な名馬を生かしたのは、ほかならぬ日本だった。

三好達彦

1962年生まれ。ライター&編集者。旅行誌、婦人誌の編集部を経たのち、競馬好きが高じてJRA発行の競馬総合月刊誌『優駿』の編集スタッフに加わり、約20年間携わった。偏愛した馬はオグリキャップ、ホクトヘリオス、テイエムオペラオー。サッカー観戦も趣味で、FC東京のファンでもある。

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