JRAマイネル軍団総帥・岡田繁幸さん逝く。武豊「僕の原点、この馬と一緒に全国区になった」絶体絶命だった天才を世に放った偉大な決断と信念【特別寄稿】
19日、「マイネル軍団」の総帥として名高い岡田繁幸さんが亡くなったことが分かった。
昨今は社台系のクラブ馬主が圧倒的な勢力を誇っているが、岡田さんはクラブ法人のサラブレッドクラブ・ラフィアンを創設、非社台の代表格となる「マイネル軍団」を率いて長年、競馬界を盛り上げてくれた歴史に残るホースマンだ。
そんな岡田さんだが、実は競馬界のカリスマ武豊騎手の出世にも大きく関わっている。武豊騎手とマイネル軍団というと、あまりイメージが沸かない人も多いだろうが、今回はそんなエピソードを紹介したい。
通算4000勝に100を超える国内外のG1制覇……。競馬界に前人未踏の記録を積み上げ続けている帝王・武豊騎手。もはや現代のメディア、競馬ファンに「競馬界の顔役」として完全に定着している。
しかし、そんな武豊騎手も当然ながらルーキー時代は存在し、はじめから競馬界をけん引する存在だったわけではない。
千里の道も一歩よりではないが、若かりし天才が本当の意味で「全国区」となったのは、積み上がったG1勝利の最初の1勝目を”史上最年少記録”というオマケ付きで果たした時だろう。
武豊は当時を振り返り「強烈だったのはスーパークリークとの出会いですね。あの馬がいなかったら、僕はこんなにたくさんのG1に乗れなかったと思う。本当に強かった。ある意味で僕の原点、この馬と一緒に全国区になった」という言葉を残している。
武豊がデビュー2年目の若干19歳でG1初制覇を飾ったのは、牡馬クラシック最終関門の菊花賞(G1)。そして相棒は、のちにオグリキャップのライバルと呼ばれるスーパークリークだった。
しかし、このスーパークリークの菊花賞制覇に”最大の貢献”を果たしたのは、鞍上の武豊でなければ、管理する伊藤修司調教師でもなかった――今回は、競馬界の帝王・武豊のG1初制覇の舞台裏にあったエピソードを紹介したい。
物語は武豊が19歳、スーパークリークが3歳を迎えた1988年の秋から始まる。