JRA史上最後の「高松宮杯(G2)」覇者は、あの珍名個性派! 「トウカイテイオーの奇跡」93年有馬記念(G1)13番人気4着激走に復活劇も霞んだ?
28日、中京競馬場では第51回高松宮記念(G1)が行われる。今では、春のスプリント王決定戦としておなじみのレースだが、第1回から25回までは、芝2000mを舞台に開催されていた。
このレースがG1に格上げされ、6ハロン戦になったのはちょうど四半世紀前の1996年。今年の開催でスプリント戦としての歴史が2000m戦としてのそれを上回ることになる。
創設当初のレース名は『高松宮杯』。これはG1格上げ後の96年と97年も続いた。現在の高松宮記念に名称が変更されたのは98年のことだ。
さて、思い出されるのが2000mのG2戦だったころ。当時は、夏競馬を彩る中距離の名物競走として、メンバーレベルもかなり高かった。現在だと、札幌記念(G2)の位置付けだ。
2000m戦として最後に行われたのが95年。例年通り、好メンバーが集った一戦で1番人気に支持されたのは、前年の有馬記念でナリタブライアンに迫ったヒシアマゾン。単勝オッズは1.5倍を示した。2番人気は、前年の宝塚記念2着馬のアイルトンシンボリ、そしてマチカネタンホイザが3番人気で続いた。
レースを引っ張ったのはなんと女傑ヒシアマゾン。それまで後方から捲る競馬で豪脚を武器にしていたが、半年ぶりのレースで折り合いを欠き、まさかの逃げる形に。持ち味を出せなかったヒシアマゾンは、当時まだ短かった中京の直線でばったり止まってしまい、5着に敗れた。
そして、このレースを制したのがマチカネタンホイザだった。
故・細川益男オーナーの珍名「マチカネ」シリーズのなかでもとりわけ人気が高く、個性派だった本馬。このレースを含む中長距離重賞を4勝するなど、珍名馬としては“異例”の活躍を見せた。
6歳(当時の表記は7歳)の12月まで現役を続けたマチカネタンホイザ。その生涯成績は32戦8勝。ただし、G1では「0-0-1-11」と連対が一度もなかった。特徴的だったのは4着の多さ。着外11回のうち4回を数えた。
マチカネタンホイザが出走したG1レースで個人的に最も印象に残っているのは、93年の有馬記念だ。トウカイテイオーが復活の勝利を遂げたレースといえば、ゴール前のシーンがすぐに頭に浮かぶだろう。
マチカネタンホイザは14頭立ての13番人気。ビワハヤヒデ、レガシーワールド、ウイニングチケット、そして1年ぶりのトウカイテイオーなどが注目されるなか、13番人気の伏兵マチカネタンホイザの話題はほぼ皆無だった。
しかし、まだ競馬初心者だった当時。理由は覚えていないが、本命に据えたマチカネタンホイザに集中していたことははっきりと覚えている。
スタートが切られると、位置取りはまさかの最後方……。「中山の短い直線でそこから追い込むのは無理だ」。そんな絶望的な気持ちに襲われた。しかし、最後の直線を向くと柴田善臣騎手のムチに応えたマチカネタンホイザは最内をスルスルと伸びていく。上位2頭には離されたが、最後はナイスネイチャと接戦に持ち込んだ。結果は、アタマ差及ばずの4着だった。
本命馬が負けたとはいえ、大健闘の4着。しかし、そこには思わぬ落とし穴も……。
その後に語り草となるトウカイテイオーの1年ぶり復活劇。そのゴールの瞬間をしっかりリアルタイムで見届けられなかったのだ。もちろん、ビワハヤヒデなど他の有力馬にも注意を払っていたつもりだったが、あくまでも“主役”はマチカネタンホイザ。歴史的名シーンの感動を数十秒遅れで味わう羽目となってしまった。
思い出の1頭、マチカネタンホイザの最後の重賞制覇が95年夏の高松宮杯だった。
(文=八木遊)