歴代ダービーオーナーたちの「強運」ぶりに驚嘆!「一国の宰相になるより難しい」といわれる東京優駿制覇の豪快エピソード
「ダービー馬のオーナーになることは、一国の宰相になることよりも難しい」。
日本ダービー(G1)のゲートが開く今週末。多くの競馬ファンが、特別な一週間を過ごしているのではないだろうか。
特別な一週間を過ごしているのはファンだけでなく、競馬に関わるすべての人たちも同じこと。特に夢舞台・ダービーに自身の愛馬の出走が叶った馬主にとっては、胸が高鳴る一週間に違いない。
冒頭で挙げたセリフは、かつての英国首相ウィンストン・チャーチルが述べたとされる有名な言葉。ダービーに勝つことの難しさを表すと同時に、その特別な名誉を表しているとおり、すべての馬主にとって、究極の目標ともいえるのが「ダービーオーナー」なのだ。
すべてのホースマンが最大の目標とするダービー。その歴史を紐解けば、誰もが唸る“強運”の持ち主が勢揃いしている。
今からちょうど70年前、1951年のトキノミノルは、当時のレコードタイムをマークしたダービー優勝からわずか17日後に破傷風で死亡。「ダービーに勝つために生まれてきた幻の馬だ」とよばれる同馬の馬主は永田雅一氏だ。
永田氏といえば、映画会社の「大映」の社長でもあり、大映スターズから東京オリオンズまでプロ野球球団のオーナーでもあった人物。個性的で大言壮語な語り口は「永田ラッパ」とよばれ、その人生の随所でただならぬ“強運”を見せつけている。
前出のトキノミノルは、1948年5月2日生まれ。曽祖父にあたるザテトラークはアイルランドの競走馬で、芦毛や黒毛、栗毛が混じった奇妙な斑点模様をもつ馬としても有名だった。「驚異のまだら」とよばれたザテトラークの血をひくトキノミノルは、気性も荒く、なかなか買い手がつかなかったという。
しかし、その素質を見込んでいた田中和一郎調教師は、当時、高額な馬を買い漁っていた永田氏に購入を勧めて、ようやく競走馬としての生活がスタート。
ところが永田氏は、全くと言っていいほど同馬に関心を持たず、馬名すらつけなかったというから驚きだ。渋々、田中調教師らが「パーフェクト」と名付けた同馬はデビュー戦を圧勝。その報告をすると、永田氏はこの馬を買っていたことすら忘れていたというエピソードも残っている。そして、デビュー戦圧勝を機に馬名はトキノミノルへと替えられた。
そんなトキノミノルは、永田氏の“強運”も手伝ったのか、連勝街道をまっしぐら。皐月賞(G1)をも制して、9戦9勝でダービー出走まで叶ってしまった。
しかしそのダービーでは、最終追い切りのタイムがあまりにも遅く、不安に思った田中調教師が脚元を調べると、かなりの腫れが発見されたことで、レースでは蹄と蹄鉄の間にクッションとしてのフェルトを挟むなどして出走したという。
そんな関係者の不安をよそに、トキノミノルは快勝。かつて馬名すら付け忘れていた愛馬が、脚元の不安を抱えながらダービー馬になるとは、やはり永田氏の“強運”は特筆モノといえるだろう。ちなみに同氏は1988年に、野球殿堂入りも果たしている。
近年のダービーオーナーで類稀なる“強運”の持ち主といえば、関口房朗氏で決まりだ。