JRA三冠馬ナリタブライアン参戦に「競馬の神様」が苦言……「みんなの馬ですから」嫌な予感が的中した26年前のあまりに寂しい幕切れ
今週末には中京競馬場で春のG1シリーズ開幕戦、第52回高松宮記念(G1)が行われる。
1971年に中京・芝2000mを舞台に創設されたこのレース。当初は高松宮杯の名称で、夏の中距離戦として施行されていた。
G2からG1に格上げされたのは1996年。距離を1200mに短縮、施行時期も5月に変更して“新生”高松宮杯が開催された。ちなみに現名称になったのは2年後の98年、3月開催になったのは2000年である。
26年前の“初代チャンピオン”に輝いたのは田原成貴騎手の3番人気フラワーパークだった。G1初挑戦にもかかわらず、2番手追走から4コーナー手前で先頭に立つ横綱相撲を見せ、最後はビコーペガサスに2馬身半差をつける完勝だった。
3着には1番人気の支持を受けたヒシアケボノが入ったが、レース前から話題を総ざらいしていたのは2番人気で4着に入ったあの馬だった。
その馬の名前はナリタブライアン。94年に史上5頭目となる牡馬三冠を達成するなど、圧倒的な能力でG1を通算5勝した名馬である。史上最強馬との呼び声も高かったが、古馬になり股関節を痛めてしまうと、その後は本来のパフォーマンスを発揮することはなかった。
故障後に挙げた勝利は今も語り草となっている96年の阪神大賞典(G2)のみ。そして結果的にナリタブライアンの最後のレースとなったのが96年のスプリントG1“高松宮杯”だった。
その年のナリタブライアンは、阪神大賞典でマヤノトップガンに競り勝つも、天皇賞・春(G1)ではサクラローレルの2着に敗退。2か月半後の宝塚記念(G1)を次なる目標に据えていた。
ところが、陣営は春のグランプリを前にもう1戦使うことを決断。それが1200mの高松宮杯ということで、当時はマスコミやファンから批判の声が噴出したという。
「ナリタブライアンを管理したのは名伯楽といわれた大久保正陽調教師です。皐月賞(G1)前には共同通信杯4歳S(G3)とスプリングS(G2)を使ったことなど、以前からそのローテーションをめぐって批判的な論調がありました。
大久保師はレースを使うことで競走馬の能力を上げていくという持論の持ち主でしたが、ナリタブライアンにとって適性外とみられた高松宮杯への出走が判明すると、厩舎には批判の手紙や電話が殺到したとか……。それくらいショッキングなレース選択でしたね」(競馬誌ライター)
実際に、天皇賞から一気に2000mの距離短縮は無謀だった。ナリタブライアンは好スタートを切るも、案の定序盤から追走に手間取り、4コーナーでは後方4~5番手という位置取り。直線で差し脚を伸ばしたが、4着に追い上げるのがやっとだった。
この時、『スーパー競馬』(フジテレビ)のスタジオで、レース後のコメントを求められた「競馬の神様」こと評論家の大川慶次郎さんのコメントも印象深い。
4着に追い込んだナリタブライアンに対し「これだけやれば褒めてやりたい」と、その走りを称えた大川氏。ところが「後が無事だといいな」と、慣れない条件を使われた同馬のダメージを気遣う発言も出た。
さらに「馬を無理させたことによって故障したりすることがあるんですよ。股関節をやってますからね……」と、古傷への影響を慮った。
続けて司会者が「ナリタブライアンくらいになると、みんな(ファン)の馬ですからね」と大川氏に振ると、「このレースに出ると言ったら、(ナリタブライアンは)ファンの馬ですよ。それを考えていただきたいと、関係者には」とやや強い口調で苦言を呈した。
さらに「今(レースを終えて)帰った時は、ブライアンは山路さん(オーナー)の馬ですよ。だけど、(出馬)投票したときはファンの馬だというふうに考えていただかないと、競馬の進歩はないんです」と言い放った。陣営の無謀なレース選択に対し、強く批判を展開した大川氏に周囲の出演者は苦笑いを浮かべるしかなかった。
そしてレースから約1か月後、大川氏の嫌な予感は的中することになる。ナリタブライアンは、右前脚に屈腱炎を発症し、その秋には無念の引退が発表された。高松宮杯出走との因果関係は定かではないが、それは「平成の怪物」と呼ばれた名馬にはあまりにも寂しい競走馬生活の幕切れだった。
(文=中川大河)
<著者プロフィール>
競馬ブーム真っただ中の1990年代前半に競馬に出会う。ダビスタの影響で血統好きだが、最近は追い切りとパドックを重視。