何故「武豊」はキタサンブラックの主戦に選ばれたのか。「タケユタカという馬がいたんですよ」北島三郎オーナーの胸にあった積年の夢
8日、演歌歌手・北島三郎が馬主業から撤退することがネット上でちょっとした話題になった。『NEWSポストセブン』(小学館)が報じたニュースが発端であると思われる。
北島三郎「オーナー」の愛馬といえば、何と言っても一世を風靡したキタサンブラックだろう。2017年の年度代表馬であり、G1・7勝を挙げて獲得賞金はJRA歴代2位の18億7684万円。個人オーナーとしては、まさにジャパニーズドリームといえる大成功だが、その立役者が主戦の武豊騎手だった。
誰もが知る大物演歌歌手・北島三郎×競馬の第一人者・武豊という組み合わせは、競馬界を超えた人々の関心を呼び、その実力だけでなく、人気においてもキタサンブラックは一時代を築いた。
もし、主戦が武豊騎手以外のジョッキーであれば、あれほどの注目を集めることはなかったはずだ。
だが、キタサンブラックは最初から武豊騎手が主戦だった馬ではない。2歳の2戦目から3歳秋の菊花賞(G1)までは主に北村宏司騎手が手綱を取り、有馬記念では北村宏騎手が落馬負傷した影響で横山典弘騎手が代打騎乗している。武豊騎手とのコンビが結成されたのは、キタサンブラックが4歳の古馬になってからだ。
では何故当時、数多のジョッキーの中から武豊騎手が抜擢されたのだろうか。
無論、それは武豊騎手が競馬界を代表するスーパースターであり、多くの馬主が「自分の愛馬に乗せてみたい」と思っていることに起因する。しかし、実は当時まで、北島オーナーと武豊騎手の接点はあまりなかった。北島オーナーの所有馬が中央であまり活躍していなかった影響もあって、武豊騎手はわずか数回しか「キタサン」の馬に乗ったことがなかったのだ。
だが、その一方で北島オーナーには、他の多くの馬主と同じく「武豊」という天才ジョッキーへの憧れがあった。その思いの象徴となったのが、北島オーナーが所有した1頭の繁殖牝馬である。
「タケユタカ」と名付けられたその馬は、1973年に中央でデビューした競走馬だ。現在であれば、この馬名が審査を通過することは極めて難しいだろう。だが、騎手・武豊がデビューしたのは14年後の1987年。タケユタカは当時「タケ」という冠名を使用していた近藤たけオーナーの所有馬であり、つまり武豊騎手とは何の関係もなかったのだ。
残念ながら、タケユタカはわずか3戦で引退。若くして繫殖牝馬となったが、その4番仔パーセントは北島オーナー(名義は妻の大野雅子さん)だった。
北島三郎オーナーの胸にあった積年の夢
「馬を持ってから50年以上が経ちますが、タケユタカという馬がいたんですよ」
それらの経緯については、キタサンブラックが武豊騎手とのコンビで初めてG1を勝利した2016年の天皇賞・春(G1)のレース後に北島オーナーが語っている。
「機会があったら(タケユタカの血を受け継いだ)その仔に乗ってほしいと思ってましたから。今回(キタサンブラック)は武さんに騎乗依頼をしてOKを頂いた」
残念ながら、キタサンブラックとタケユタカの血のつながりはないが、北島オーナーにとっては愛馬が武豊騎手を背にG1を勝つという積年の夢が叶った。
「まつりだ、まつりだ、まつりだ、キタサンま~つり~、今日は豊の、まつり~だ~よ~」
入場者約8万人と、超満員の京都競馬場に鳴り響いた北島オーナーの『まつり』。残念ながら、この興奮を競馬場で味わうことはできなくなってしまったが、キタサンブラックの血、そして北島オーナーの思い出は、産駒のイクイノックスやソールオリエンスらが受け継いでいくことになる。