約38年間のジョッキー生活に別れを告げた「二刀流の鉄人」。雨にけむる府中で人気薄と果たした「最年少G1制覇」【競馬クロニクル 第43回】

 平地と障害の“二刀流”ジョッキーとして鳴らした大ベテラン、熊沢重文(56歳)が昨年の11月11日付で免許を返上し、現役を引退した。

 熊沢さんのデビューは1986年で、いまもジョッキーとして現役を張る横山典弘、2006年に調教師へ転身した松永幹夫と同期。何かと注目を集める横山や松永とは違い、地味な印象が強い熊沢さんだが、実は同期のなかでG1制覇一番乗りを果たしているのだ。

 1988年の牝馬クラシック戦線は、河内洋が手綱をとるトウショウボーイ産駒のアラホウトク、その河内の弟弟子である武豊の“お手馬”シヨノロマンを中心とし、他に報知杯4歳牝馬特別(G2、現・フィリーズレビュー)を勝ったスカーレットリボン、重賞2勝のシノクロスらが追撃する構図となっていた。

 一冠目の桜花賞(G1)は、1番枠から先行したシヨノロマンを、良きタイミングを見計らって中団から鋭い末脚を繰り出したアラホウトクが差し切り、1馬身3/4の差を付けて優勝。“関西の至宝”とまで呼ばれた河内の絶妙な手綱さばきが光った一戦だった。

 桜花賞を華やかな表舞台とするならば、光の当たらないバックヤードでこつこつと走り続けている馬たちがいる。特に強調する部分が見当たらない、ありふれた鹿毛の牝馬と思われたコスモドリームもそんな1頭だった。

 コスモドリームの父は、条件戦を3勝したのみで種牡馬入りしたブゼンダイオー。金鯱賞(現G2)と小倉記念(現G3)を制するなど、将来が期待されていた全兄のホウシュウミサイルが急死したため、その代わりとして上田牧場(北海道・白老)が後継種牡馬として白羽の矢を立てたという経緯があった。

 上田牧場の創設者である有力馬主、上田清次郎のバックアップを受けた調教師の松田博資は、厩舎開業時から所有馬の預託を受けていた。コスモドリームもそうしたバックグラウンドがあって入厩した1頭だった。

 コスモドリームは1988年、3歳になってからのデビュー。折り返しの新馬戦を勝ったものの、続く条件戦は3着、競走中止、400万下(現・1勝クラス)が2着と、勝ち星を積み重ねるのに苦心した。

 そして桜花賞の翌週、4月16日に阪神で行われた400万下のはなみずき賞をクビ差で制して、ようやく2勝目を挙げたのだった。

 陣営は次走にオークス(G1)を射程に据えた。2勝馬で出走は可能なのか、という疑問が聞こえてきそうだが、当時のオークスはフルゲートが24頭と、いまと比べてじゃっかん出走のボーダーが低かった。それに救われて出走が叶ったという側面もあった。

 5戦目からはその年にデビューしたばかりの岡潤一郎が手綱を任され、2勝目を挙げたはなみずき賞でも彼が騎乗していた。しかし、新人の岡にはG1レースへの騎乗資格がなく、コスモドリームのデビューから4戦目まで乗った熊沢重文を再び鞍上に迎えることになった。

 しかし熊沢は、いくつかのリスクを背負っていることが分かる。まず、オークスの舞台である東京競馬場での騎乗経験がないこと。重賞勝ちの経験もないこと。また、これがクラシック競走初騎乗となるということだった。

 コスモドリームは、のちにベガ(桜花賞)、アドマイヤムーン(ドバイデューティーフリーほかG1・3勝)、ブエナビスタ(天皇賞・秋ほかG1・6勝)、ハープスター(桜花賞)など、次々と名馬を送り出す調教師の松田博資も厩舎を1983年に開業したばかりで、当時の感覚では「駆け出し」と見られていたところもある。それだけに、実績も血統も人気馬に見劣る彼女が勝ち負けするとはあまり思わずに、熊沢を起用したのではないかと推察する。

 迎えたオークス。良馬場発表だとはいえ、昼頃から降り出した雨に府中の杜はけむっていた。

 単勝1番人気は桜花賞馬アラホウトクで、オッズは2.2倍。2番人気はシヨノロマンで、オッズは6.7倍。事実上、アラホウトクの“一強”というのがファンの見立てだった。

 一方、前走でようやく2勝目を挙げ、今回がG1はもちろん、重賞自体が初挑戦となるコスモドリームはオッズ23.1倍の10番人気。いささか失礼な言い方をすれば、意外と人気が高かったのだなと、いまは感じる。

 レースはスルーオベストの大逃げで進んだこのレース。3番人気のスイートローザンヌが第2コーナーで競走中止するアクシデントがあったなか、シヨノロマンが10番手、アラホウトクはその直後の13番手を進み、外から被せられるように内へ閉じ込められたコスモドリームはさらに後ろの15番手付近を進んだ。

 レースが動いたのは第3コーナー過ぎ。後続を10馬身以上離して逃げるスルーオベストをめがけて、後方待機の馬たちが一気に仕掛けて出た。直線へ向いたところでアラホウトクとシヨノロマンは5番手付近まで位置を押し上げていた。

 しかしシヨノロマンは湿った馬場が合わなかったのか、これまで見せたような差し脚が繰り出せず、勝負圏内から遠のいた。アラホウトクはいったん先頭に立つが、勝負どころで脚色が鈍る。代わって先団に襲い掛かったのは、中盤まで後方を進んだ馬たちだった。

 直線の坂上、フリートークが先頭をうかがうが、ぽっかりと空いた外目のスペースを突いて豪快に伸びてきたのはコスモドリームだった。一気に先団を飲み込むと、粘るアインリーゼンを抑え、第1コーナーを19番手で回った11番人気のマルシゲアトラスの追い込みも封じて、見事な勝利を収めたのだった。

 大混雑したメインスタンドで見ていた筆者は、雨にけむって見えにくいことも手伝って、恥ずかしいことだが、どの馬が勝ったのか、すぐには分からなかった。それは自分だけではなかったようで、周囲では「え?何が勝った?」という声が飛び交っていた。そしてオールドファンのあいだでは有名な逸話だが、民放テレビの中継アナウンサーも、「まさかコスモドリームが?」という意識が働いたのかどうか、抜け出した他馬の名を勝利馬として実況し続けるという珍事もあった。

「レースはアラホウトクの河内さんをマークしていきました」

 勝利ジョッキーインタビューで熊沢は冷静なレース運びの一端をのぞかせると、続いて「直線は抜け出したときにヒヤヒヤしました。(コスモドリームが)こんなに強いとは……。初めてのクラシックで勝てるなんて、本当に嬉しいです」と、若武者らしい感想も口にした。

 ちなみに熊沢のこの勝利は、満20歳3カ月という当時の最年少G1勝利であり、減量騎手(見習騎手)としては史上3人目の記録だった。

 そのあと熊沢は1991年、伝説の有馬記念(G1)において、単勝14番人気のダイユウサクで“絶対王者”と呼ばれたメジロマックイーンを下す大金星を挙げ、2005年にはテイエムプリキュアで阪神ジュベナイルF(G1)を制した。そして2012年の中山大障害(G1)をマーベラスカイザーで優勝。若いときから「勝ちたいレースはダービーと中山大障害」と公言していた“二刀流”の熊沢にとって最高の栄誉となる「平地・障害の両G1制覇」を成し遂げたのだった。

 障害レースに乗る騎手の常として、負傷がたえることはなかった(筆者はある障害ジョッキーから「鎖骨やあばら(骨)のヒビぐらいなら痛いのを我慢して乗る」と聞いたことがある)。22年2月の障害戦での落馬による怪我が引退を決断する要因になった。

 平地で794勝、障害で257勝を挙げた熊沢重文。オールドファンから「鉄人」という称号を捧げたいと思う。
(一部敬称略)

三好達彦

1962年生まれ。ライター&編集者。旅行誌、婦人誌の編集部を経たのち、競馬好きが高じてJRA発行の競馬総合月刊誌『優駿』の編集スタッフに加わり、約20年間携わった。偏愛した馬はオグリキャップ、ホクトヘリオス、テイエムオペラオー。サッカー観戦も趣味で、FC東京のファンでもある。

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