JRA 「ダート世界女王」マルシュロレーヌで思い出される「砂の女王」 エリザベス女王杯(G1)で生まれた名実況だけじゃない!横山典弘を変えたエピソードと遺したもの
7日、日本の競馬ファンへ嬉しい知らせが舞い込んできた。それはマルシュロレーヌ(牝5歳、栗東・矢作芳人厩舎)が日本馬初の米国ダートG1勝利という快挙を成し遂げたという朗報だった。
この日は秋競馬真っ只中の日曜だが、珍しくG1開催がない中休み。物足りなさを感じていたファンもいたかもしれないが、代わりにアメリカのG1が盛り上げに一役買ってくれたのではないだろうか。
今週末のエリザベス女王杯(G1)を皮切りに再びG1開催が続くが、「エリザベス女王杯」と「ダート」の2文字を聞いて、ホクトベガを思い出したファンもいるのではないだろうか。
1990年3月26日、北海道の酒井牧場で父ナグルスキーと母タケノファルコンの間に1頭の大きな牝馬が生まれた。その牝馬は「ホクトベガ」と名付けられ、美浦の中野隆良厩舎へ預託された。
育成時代は馬格のわりに体力がないことで期待されていなかったが、デビュー戦の中山ダート1200m戦を圧勝すると、その後も2着・1着と好走。4戦目のフラワーC(G3)で初めて芝を使ったが、ここでも快勝を挙げて一躍クラシック候補に名乗りを上げる。
だが、好調ホクトベガの前に1頭の強力な牝馬が立ちはだかる。その馬の名はベガ。どちらも由来がこと座のα星ということで「ベガ対決」と話題にもなったが、桜花賞(G1)・オークス(G1)ともにベガに軍配が上がった。
ホクトベガとベガの3度目の直接対決は、当時牝馬クラシック最終戦に位置付けられていたエリザベス女王杯。牝馬三冠がかかったベガが注目される一方、ホクトベガはオークス後も2戦未勝利で9番人気と評価を落としていた。
しかし、低評価をよそにホクトベガは激走した。4コーナーでベガとノースフライトを交わして先頭へ立つと、後続各馬の追撃を凌いでG1初勝利を達成。特にゴール前のシーンでは、関西テレビ・馬場鉄志アナウンサーの「ベガはベガでもホクトベガ!」の名実況が生まれたことで有名だ。
牝馬クラシック最終戦を勝利で飾ったホクトベガだが、この後は札幌記念(G3)などを勝利するも苦戦が続く。その不振ぶりは、障害競走出走も検討されるほどであった。入障こそ免れたが、鳴かず飛ばずの成績が続き。そんな苦境の最中の95年6月に転機が訪れる。
この年から今では定番となった中央・地方の全国交流競走がスタート。そして、川崎競馬場の伝統牝馬重賞・エンプレス杯(G1)も全国交流競走へ指定されたことを受けて、ホクトベガ陣営は出走を決意。相手は全頭地方所属馬だが、当時南関最強牝馬と呼ばれた馬をはじめ強豪揃い。ホクトベガが敗れても驚けない一戦だが、別の意味で驚愕する結果となった。
まずまずのスタートを決めたホクトベガは、向こう正面で先頭に立つとそこから持ったまま悠々一人旅。1頭だけ別次元の走りを見せて、2着馬に18馬身差をつける衝撃的な圧勝劇を見せた。このエンプレス杯が「砂の女王」伝説の始まりとなった。
翌96年の川崎記念を皮切りにダート競馬に本腰を入れると、G1昇格前のフェブラリーS(G2)を勝利するなど怒涛のダート7連勝。合間に芝を使って連勝は途切れるも、結局引退まで国内のダート戦で負けることは無かった。
来る97年、国内ラストランの川崎記念を危なげなく勝ったホクトベガは招待されたドバイWC(G1)をラストランに選ぶ。だがドバイまでの長距離輸送と不慣れなドバイの環境により、ホクトベガは絶不調に陥る。
幸い大雨によりレースが延期されて、ホクトベガは何とか出走できる状態にまで回復。陣営は出走を決意し、ホクトベガはラストランへ臨んだ。
中団からレースを進め、手応え良く4コーナーを回ったホクトベガだったが、次の瞬間。他の馬と接触し足を取られて転倒してしまう。続けて後続馬が追突したことで、左前腕節部複雑骨折を負った女王は異国の地で星となった。
女王の死を1番重く受け止めているとされているのが、ダート転向後に主戦騎手となった横山典弘騎手だ。元々オーナーが前向きではなかったドバイ遠征を強く薦めたのが、横山典騎手だった。『スポーツニッポン』のインタビューに対し、名手は「自分がホクトベガの運命を変えてしまった」と、後悔の念を表している。
さらに馬上から落ちた横山典騎手をホクトベガは身を挺して後続馬から守ったという。「馬に命を助けてもらって、今こうしていられる」と話す横山典騎手は、それから「馬も自分も守る」スタイルへ。
ホクトベガは横山典騎手へ多大な影響を与えた1頭と言えるだろう。
現在、地方競馬は空前のブームを迎えているが、90年代後半はバブル崩壊後の不況で苦しんでいた。その地方競馬を支えたのが、交流重賞へ出走してくるホクトベガだった。スターホースのホクトベガが走るレースは多くのファンが馬券を購入したため、地方競馬関係者の支えになっていた。
ホクトベガが盛り上げた交流重賞は、今ではファンの間では定番となり、中央・地方お互いのレベルを高め合うハイレベルなレースへ成長。マルシュロレーヌも国内では交流重賞を中心に活躍した。
現在の日本競馬を盛り上げる数々の要因をホクトベガは作っていった、と言っても過言ではない。真夏の空に輝く1等星へ冥福を捧げて、今週末彼女が最初に輝いたエリザベス女王杯を観戦したい。
(文=坂井豊吉)
<著者プロフィール>
全ての公営ギャンブルを嗜むも競馬が1番好きな編集部所属ライター。競馬好きが転じて学生時代は郊外の乗馬クラブでアルバイト経験も。しかし、乗馬技術は一向に上がらず、お客さんの方が乗れてることもしばしば……