今では常識?「Happy people make happy horse」偉大なホースマン藤沢和雄が後世に残したモノ【競馬クロニクル 第31回】

 1993年11月21日の京都競馬場。

 第7Rまでは、いわゆる“時計が出る”「良馬場」だったが、レースが終わるころから小雨が落ち始める。それでも第8Rは「良」で行われたが、雨は急激に強さを増して、第9Rでは馬場状態が「重」になり、さらに天候は今で言う“ゲリラ豪雨”のような状態になって、馬場に浮いた雨水はスタンドのライトに照らされてまだらに光っていた。

 そして第10R、当日のメインにセットされたマイルCS(G1)は、ついに馬場状態「不良」にまで悪化した。

 当時、筆者は取材のため京都競馬場を訪れ、ゴール過ぎあたりにあるカメラマンの待機所にいた。しかしこの建物は、待機所と言えば聞こえはいいが、正確には「小屋」と言ったほうがいい質素な造り。そこへゲリラ豪雨が叩き付けたのだからたまらない。撮影に支障を来さないようレインウェアを用意しているカメラマン諸氏と違って、豪雨の前では役に立たない貧相な折り畳み傘しか持たない筆者は、風に乗って吹き込む雨であっという間にずぶ濡れになってしまった。

 スタンド前の立ち見スペースは、観客がみな建物のなかに逃げ込んだためにガラガラになり、降り止む様子がない雨のなか空は薄暗く沈み、コースを照らすライトだけが煌々と光るという異様なムードに包まれた。

 レースは、俊英トレーナーとして注目を集める藤沢和雄が送り込んだ外国産馬シンコウラブリイと、桜花賞(G1)、スプリンターズS(G1)を制している持込馬ニシノフラワー、2頭の4歳牝馬による一騎打ちというのが大方の見方だった。

 シンコウラブリイは父に英愛リーディングで2度チャンピオンサイアーとなったカーリアン(Caerleon)を持つ良血だったが、彼女が現役だった1991-1993年時にはまだ外国産馬にクラシックや天皇賞などの主要G1が開放されていなかった。

 そのため、重賞は3歳時にニュージーランドトロフィー4歳S(G2、現・ニュージーランドトロフィー)、ラジオたんぱ賞(G3)、クイーンS(G3)の3つ、4歳時に毎日王冠(G2)、スワンS(G2)と5つの勝ち鞍を重ねていたが、前年のマイルCSでダイタクヘリオスの2着、4歳時の安田記念(G1)でヤマニンゼファーの3着という好走はあったものの、ビッグタイトルにはいまだ縁がなかった。

 ちなみに、この秋に本レースへ進んできたのは、毎日王冠で牡馬の強豪を蹴散らしながら、天皇賞・秋(G1)へ進めなかったのも要因のひとつである。

 牧場の一家に生まれた調教師の藤沢は知人が経営する小牧場で働いたのち、場主の「競馬の道へ進むなら本場に留学したほうがいい」との勧めを受けて渡英。名トレーナーとして知られていたギャビン・プリッチャード・ゴードンの下で厩務員として4年間修業。このときに得た経験をのちに日本で活かすことになる。

 帰国後は1977年に競馬サークルに入り、日本ダービーを制したカツトップエースを管理する菊池一雄のもとで活動をスタート。“ミスター競馬”と呼ばれた野平祐二の厩舎に移ってからは調教助手として“皇帝”シンボリルドルフの管理の一翼を担うことになる。

 1988年に厩舎を開業した藤沢は、そのユニークな調教スタイルが大いに注目を集めた。

 馬を数頭単位でグループを作って行う『集団調教』。最終追い切りでも速い時計は出さないことからマスコミにそう呼ばれるようになった『馬なり調教』。それまで日本の調教では行われていなかったことを平然とやってのけ、着実に成績を伸ばした。「そんな甘っちょろいやり方では勝てない」と陰口をたたく者も少なくなかったにもかかわらず、である。

 だが、のちに藤沢は「イギリスで修行していた自分にとっては当然のことをやっていただけ」と当時を振り返っている。

 そんな藤沢だが、最初から好成績が挙げられたわけではない。

 開業当初は解散した他厩舎から引き継いだ馬で戦わざるを得ず、厩舎スタッフも自分で選んで雇い入れられるわけではなかったからだ。厩舎の開業初年度となった1988年の勝ち鞍はわずか8つに過ぎなかった。

 藤沢に大きな転機が訪れたのは、大樹ファームのオーナーである赤沢芳樹の知己を得てからである。

 赤沢は英国にも牧場を所有し、主に米国で多くの名馬の育成・調教を手掛けた名ホースマンであるジョン・マルドゥーンをアドバイザーに迎え入れると、当地で育成しながら日本の馬場に向いた馬を選抜して輸入。その後、本格的にトレーニングするという斬新な手法を持ち込んでいた。そのシステムには、欧米の競馬に造詣が深い騎手の岡部幸雄も注目していた。

 こうしたシステムのなかで大樹ファームに輸入され、“シンコウ”の冠名で知られた安田修に購入されたのがシンコウラブリイである。そして、大樹ファームと安田の仲を取り持った藤沢が管理を任され、岡部が主戦騎手を務めることになる。

 英愛のチャンピオンサイアーの仔ということもあってデビュー前から注目を集めたシンコウラブリイは、ニュージーランドT4歳Sで藤沢厩舎に初の重賞タイトルをもたらし、その後も重賞戦線で牡馬と互角に渡り合った。

 その頃、取材で聴いた藤沢の言葉は今も耳に残っている。

「このコは走るのがすごく好きだから、(手綱を)放すと走りすぎちゃう。だから我慢を教えて、レースで一所懸命走ってもらえるように稽古してるんだよ」。馬を「このコ」と呼んだ調教師に出会ったのは初めてのことだった。

 話をレースに戻そう。

 ドシャドシャの不良馬場のなか、イイデザオウが積極的に逃げると、シンコウラブリイは鞍上の岡部に手綱を抑えられながら難なく3番手をキープ。道悪が得意とは言えないニシノフラワーが後方でもがくところ、シンコウラブリイは抑え切れない手応えで最終コーナーを回って直線へ向く。イイデザオウが粘ろうとするが、ゴーサインを受けたその外から力強く脚を伸ばして先頭に躍り出て、ついにビッグタイトルを奪取。

 突然の豪雨にもまったく動じない「走るのが好きなコ」の見事な勝利であり、藤沢にとっても初のG1タイトルとなった。

 そして、前走のスワンSを勝利したあと発表されたとおり、これが彼女のラストランとなった。

 その後の藤沢の歴史的な活躍は詳述する必要はないだろう。通算勝利数は尾形藤吉の1670勝に次ぐ1570勝(JRAのみ)。そして重賞勝利数は129(海外3勝を含む)、G1勝利数は34勝(海外1勝を含む)、リーディングトレーナー14回(JRAのみ)と目も眩むような数字が並んでいる。

「Happy people make happy horse」

 このシンプルにして実行するのが難しいテーマを掲げて偉大な記録をつくり、競馬の深みを表現し続けた偉大なホースマン、藤沢和雄。その扉を開いたのがシンコウラブリイであり、強いインパクトを与えた1993年のマイルCSだった。

 レース後、小降りになったなかで撮られたマイルCSの口取り写真には、岡部は馬から降りて関係者と並ぶ様子が写りこんでいる。レースで疲れた馬に負担をかけたくないという思いから行われたこのスタイルだが、いまでは当たり前になったこの形式も、日本へ持ち込んだのは藤沢であった。(文中敬称略)

三好達彦

1962年生まれ。ライター&編集者。旅行誌、婦人誌の編集部を経たのち、競馬好きが高じてJRA発行の競馬総合月刊誌『優駿』の編集スタッフに加わり、約20年間携わった。偏愛した馬はオグリキャップ、ホクトヘリオス、テイエムオペラオー。サッカー観戦も趣味で、FC東京のファンでもある。

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