【朝日杯FS】ミホノブルボン「ハナ差」の勝利に見えた気迫…ヤマニンミラクル乾坤一擲の猛追も最後まで先頭譲らず【競馬クロニクル 第35回】
1991年9月7日、中京の新馬戦(芝1000m)を勝ち上がった1頭の栗毛馬が記者席をざわつかせた。
短距離戦では致命的な大出遅れで最後方に置かれながら、最後の直線で猛追。粘り込みを図る逃げ馬を軽く交わし、1馬身1/4の差を付けて58秒1でレコード勝ちを収めたからだ。ちなみにその時の上がり3ハロンは33秒1という猛時計で、2着馬とは1秒8もの差があった。
その馬こそ、のちに稀代の逃げ馬となるミホノブルボンである。
ミホノブルボンを管理した戸山為夫は異端の調教師だった。スパルタ調教で鳴らし、厳しい調教を課すことで知られていた。実際、ハードトレーニングに耐えられるというシビアな条件を飲むオーナーの馬しか預からず、自身が騎手だった時代に乗り馬集めに苦労した体験から、自分の弟子を優先的に乗せることも条件とした。
これらの要求を飲むオーナーは当然ながら少なく、厩舎開業の当初は預託馬を集めるのに苦労した。そんな状況のなか、ハードトレーニングで馬を強くするという信条のもと、自身の生産所有馬を厳しく鍛えることを旨としていたカントリー牧場の創設者、谷水信夫と出会う。
この偶然のマッチングが功を奏し、戸山は開業からわずか4年目の1967年、谷水から預かったタニノハローモアで日本ダービーを制した。
この年のダービーはマーチス、タケシバオー、アサカオーによる“三強対決”としてファンに注目されていたが、最内の1枠1番に入ったタニノハローモアに思い切った逃げを打たせる算段を立て、騎手の宮本悳にその旨を伝えていた。
「“三強”は牽制し合うだろうから、ひょっとするかもしれない」という思いからの作戦だったが、その読みは見事に的中。稍重となった馬場で豊富なスタミナを味方に付け、後ろで慌てる“三強”を尻目に、2着のタケシバオーに5馬身もの差を付けて逃げ切ってしまったのだ。
それ以降、重賞勝ち馬はコンスタントに出すものの、G1(級)タイトルからは遠ざかった戸山だったが、久々に探し当てた大物候補がミホノブルボンだった。
その大物候補をブレイクさせたのが1985年、栗東トレーニング・センターに新設された調教施設、坂路コースだった。
ウッドチップを敷き詰めた坂路を使うことによって、脚への負担を減らして効率的にトレーニングできるとされたこの施設だが、できた当初は様子見する調教師が大半で、利用する者は少なかった。
そうした状況のなか、「我が意を得たり」と積極的に調教メニューに取り入れたのが戸山だった。
1991年の4月に栗東へと入厩したミホノブルボンを戸山は早速、坂路コースへ入れてみた。すると、普通の馬が2~3回の登坂でクタクタになるにも関わらず、ブルボンは3回登ってもすぐ息が戻り(呼吸が平常に戻り)、その後は4~5回も登らせるようになった。
しかもデビュー前にもかかわらず、オープンクラスの馬より速いタイムを叩き出すという末恐ろしい能力を見せ、デビュー戦では単勝オッズ1.4倍の1番人気に推されたわけである。
デビュー戦のあと管骨に軽い骨膜炎を発症したため2カ月ほどレース間隔を空け、2戦目は500万下(現1勝クラス)の芝1600m戦に臨んだ。
道中2番手を進んだミホノブルボンは直線に入ると馬なりで先頭に立ち、そのまま手綱をしごくこともなく2着に6馬身差、タイムにして1秒0の差をつけて完勝。このレースを見るために東京競馬場へ駆けつけた筆者も、この結果にはただただ呆れるしかなかった。
そしてミホノブルボンが次戦に選んだのが朝日杯3歳S(G1、現・朝日杯フューチュリティS)である。
前年まで、関東では朝日杯3歳S、関西では阪神3歳Sと、2歳チャンピオン決定戦は東西に分かれていたのだが、1991年を機に、牡馬は朝日杯3歳Sに、牝馬は阪神3歳牝馬S(G1、現・阪神ジュベナイルF)にと、牡牝を別にしたかたちへと整備された。
ミホノブルボンはここでも単勝オッズ1.5倍の1番人気に推されたが、京成杯3歳S(G2、現・京王杯2歳S)勝ち馬のヤマニンミラクルや、オープンの府中3歳Sを制したマチカネタンホイザなどの強者たちもオッズ4倍台で、実質的に世代の強豪と初めて手合わせすることになった。
ミホノブルボンが逃げを主張したが、マイネルアーサーもハナを譲らず、2頭は雁行状態で最終コーナーを回る。直線へ向いて後退するマイネルアーサーを振り落として先頭に躍り出たミホノブルボンだったが、前半にやや力みがあったためか、やや脚色が鈍ったかに見えた。そこへ3番手に控えていたヤマニンミラクルが急襲。2頭は馬体を併せたままゴールへ飛び込んだが、写真判定の結果、ミホノブルボンがハナ差先着していた。
ミホノブルボンのぶっちぎり勝ちを期待していた筆者は、この辛勝にやや落胆していたのだが、それを編集部の先輩に諫められた。
「あれは普通ならミホノブルボンが差される競馬。それを最後まで抜かさせなかったのだからは只者じゃないぞ」
帰宅してから録画したレースの模様を見て驚いた。ミホノブルボンは外から馬体を併せに来たヤマニンミラクルを睨みつけ、絶対に抜かさせないという気迫をむき出しにしているさまが映し出されていたからである。
その後のミホノブルボンの活躍はご存じのとおり。“坂路の申し子”と呼ばれるようになった彼は無敗のまま皐月賞(G1)、日本ダービー(G1)を制覇。ライスシャワーの強襲に屈し、初めて2着に敗れた菊花賞(G1)ののち故障を発症して、ターフに戻ることなく引退した。
そして戸山は、食道がんを発症していることが判明して91年に手術を受けており、菊花賞のあとに再入院。1993年の5月29日に死去した。そして戸山の死から1カ月後、闘病中に執筆した著書『鍛えて最強馬をつくる-ミホノブルボンはなぜ名馬になれたのか』が上梓され、同年のJRA賞馬事文化賞を受賞している。
間違いなく、異端の調教師、戸山為夫の最高傑作はミホノブルボンだった。(文中敬称略)