満票の年度代表馬が「66.5キロ」で日経新春杯出走…数奇な運命のもとに生まれ、悲劇的な最期を遂げたテンポイント後編【競馬クロニクル 第38回】

満票での年度代表馬、そして海外へ…

 テンポイント陣営は念願だった海外遠征のプランを発表し、競馬ファンはこの挑戦計画で大いに盛り上がった。それと同時に、遠征前にぜひ「流星の貴公子」の走りを見ておきたいという要望が調教師の小川佐助、オーナーの高田久成のもとに届けられた。

 陣営は日経新春杯(当時の正式なレース名は「日本経済新春杯」)を壮行レースにと考えたが、当時のハンデ戦においては、ビッグレースを勝った馬が過酷な斤量を背負わされるレギュレーションとなっており、テンポイントは66.5キロという厳しい斤量での出走となった。

 これまでも60キロを超える負担重量をこなして勝利を挙げており、騎手の鹿戸は「70キロでも勝てる」と、周囲の心配を歯牙にもかけなかった。

 テンポイントの走りぶりは好調で、第3コーナーからの下りで位置を押し上げてスパートに入ろうとしたところだった。急激に失速して、鹿戸が手綱を引いて止めようとしている様子が目に入った。誰の目にも大きな故障を発症したことは歴然としていた。

 直線の入り口付近で鹿戸は下馬し、手綱を持って救急車の到着を静かに待っていた。

 当日、師事する写真家のオーダーを受けて第4コーナーの外ラチで撮影していたカメラマンから、この時の話を聞いたことがある。作業着に帽子姿のファンが涙声で、やり場のない悲しみを表すように握りしめた競馬新聞で自身の腿を叩きながら、こう叫んでいたという。

「えらいことんなった。えらいことんなった。こんなんではアメリカへ行かれへんやんか。えらいことになってしもうた」

 テンポイントは左後肢を骨折していた。その部分が皮膚を破って外へ出る開放骨折という重傷だった。ただし、これが負担重量に起因するものかどうかは定かではない。

 通常ならば、すぐに安楽死の処置がとられるほどの大怪我で、獣医師からはそう勧められたが、オーナーの高田と調教師の小川はその場では決断しかね、1日の猶予がほしいと医師に伝えた。

 すると、レース直後から競馬場にテンポイントの助命を嘆願する電話が鳴りっぱなしになり、対応に苦慮するほどだったという。

 関係者だけではなく、ファンからの大きな反響もあって、JRAはテンポイントの治療に取り掛かることになる。前例のないケースだったため、30人にも及ぶ治療チームを組んでの挑戦だった。担当厩務員の山田幸守は長い闘いになるとみて、テンポイントの馬房の前に布団を持ち込み、いつ異常があっても気付けるよう、その場で寝起きした。

 レース翌日には折れた骨をボルトで繋ぎ合わせる手術を行い、患部をジュラルミンのギプスで固定。そのあと、熱発で苦しんだテンポイントだったが、それを精神力で克服し、一時は生命の危機を脱する兆しが見えた。

「あの美しい馬が日に日に衰えていくのを見るのは本当につらかった」

 テンポイントの容体は、スポーツ紙のみならず、一般紙やテレビでもたびたび伝えられ、競馬ファン以外にも関心が広がった。

 しかしそれをピークに、テンポイントは徐々に弱っていく。

 患部からふたたび骨が露出したほか、血行や体液の循環が悪化して蹄が腐る蹄葉炎と、相次いで合併症を発症。その後は治療を断念し、体を支えるために腹の下から回して釣り上げていたネットも外して、テンポイントを横たえた。

 治療を開始してから43日目の3月5日、ついにテンポイントは力尽きた。寝藁のうえでテンポイントに添い寝していた厩務員の山田は愛馬の首に抱き着いて激しく嗚咽したという。

 アナウンサー(当時は関西テレビ)の杉本清は、どうしても気になるため、三日にあげず厩舎を訪ねてテンポイントを見舞ったが、「あの美しい馬が日に日に衰えていくのを見るのは本当につらかった」と述懐している。

 オーナーの高田は、自分の「助けてほしい」というひと言がテンポイントを苦しめてしまったと後悔の気持ちを語ったが、シンザンを育てたことで知られる調教師の武田文吾は「テンポイントが苦しんだのは可哀想だったが、馬の医療のためには無駄ではなかった」と高田を擁護した。

 1990年、テンポイントは顕彰馬に選出された。旧八大競走(※)の勝利が2つというのは異例のことだったが、ファンのリアクションも含めての選出であったと、のちに評論家の大川慶次郎が明かしている。

 テンポイントの葬儀は、まず栗東トレーニング・センターと、生まれ故郷の吉田牧場で行われ、後者には数百人のファンが駆けつけ、参列した。

 数奇な運命のもとに生まれ、悲劇的な最期を遂げた1頭の優駿。通常使われる8ポイントより大きな10ポイントの文字で報じられるようにと付けられたその名は、オーナーの思いをはるかに超えて大きく報道され、ファンからも深い愛情と哀惜の念を受け取った。(文中敬称略)

 ※1984年のグレード制導入前、クラシック5競走(皐月賞、日本ダービー、菊花賞、桜花賞、オークス)に、春秋の天皇賞、有馬記念を加えた8競走は、特に格が高い競走とカテゴライズされていた。

三好達彦

1962年生まれ。ライター&編集者。旅行誌、婦人誌の編集部を経たのち、競馬好きが高じてJRA発行の競馬総合月刊誌『優駿』の編集スタッフに加わり、約20年間携わった。偏愛した馬はオグリキャップ、ホクトヘリオス、テイエムオペラオー。サッカー観戦も趣味で、FC東京のファンでもある。

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