「牝馬の時代到来」を予感させた女傑エアグルーヴ、「勝つときはこんなもんだよ」それより17年前に快挙を成し遂げた可憐な少女の逃走劇【競馬クロニクル 第42回】

 女傑エアグルーヴが牡馬相手に優勝した1997年の天皇賞・秋(G1・芝2000m)は、牝馬としては17年ぶりとなる優勝で、その後の“牝馬の時代”を予兆させるものとして極めて大きな価値を持つ出来事として日本競馬の歴史に刻み込まれている。

 実はエアグルーヴよりも17年前に天皇賞・秋を制した牝馬が存在したが、そのプリテイキャストとはどういう馬だったのか。1980年、まだ春秋の天皇賞がともに芝3200mで行われていた時代に起こった、前代未聞のアップセットを振り返ってみる。

 プリテイキャストは1975年、北海道・早来町の名門、吉田牧場で生を受ける。父は米国から競走馬として輸入されたカバーラップ二世で、競走成績は優れなかった。

 しかし、英ダービー、英セントレジャーを制した名馬にして、6度も英リーディングサイヤーに輝いたハイペリオン(Hyperion)につらなる血統を買って、吉田牧場が種牡馬として繋養した。すると彼は、皐月賞や有馬記念を勝ったリュウズキ、天皇賞馬カシュウチカラ、桜花賞馬ワカクモなどの活躍馬を出して、種牡馬としての供用に踏み切った関係者の期待に応えた。

 母のタイプキャスト(Typecast)は1972年、現役時代に米国の重賞を7勝してエクリプス賞最優秀古馬牝馬に輝いたキャリアを持つ世界的な名牝。引退後、元の米国人オーナーが事故で亡くなり、牧場を閉鎖することから繋養馬がセリで売りに出されるという情報が流れたのだが、その話を聞き付けた吉田牧場の場主、吉田重雄が当時のレートで2億円を超える高値で競り落とし、1973年から日本で繁殖入りした。

 プリテイキャストは体が小さく(一説によれば400kgほどしかなかったという)、なかなか本格的な調教を施せないこともあって、デビューは2歳11月にずれ込んだ。そしてレースでもなかなか結果は出ず、初勝利を挙げたのは3歳5月、デビューから8戦目のことだった。

 次走を4着に敗れたあと、函館の条件特別を2連勝したが、そこからはまた長いトンネルに入り込んでしまい、エリザベス女王杯の4着、クリスマスHの勝利、翌年の条件特別の勝利が目立つ程度。そこからはまた8連敗を喫し、厳しい戦いを強いられ続けた。

 それでもプリテイキャストの挑戦は続いていく。5歳の春、ダートの条件特別で久々の勝利を挙げると、続いて臨んだダイヤモンドS(重賞、東京・芝3200m)では単勝8番人気という低評価ながら、バックストレッチで先頭に立つ積極的なレース運びに加え、52kgという軽ハンデも味方に付けて、後続に7馬身もの差を付けて快勝。重賞初制覇を成し遂げた。

 その後は、天皇賞・春が15着、札幌日経賞と札幌記念が2着、函館記念が6着、毎日王冠が3着、目黒記念・秋(当時)が11着と、安定感は欠けるが、重賞でも上位争いをするレースも増えてきて、「晩成なのかもしれない」と現役続行を決断した関係者の期待に応える走りを見せるようになった。

 そして目黒記念から中2週、2走前から手綱をとるようになった柴田政人を背に、天皇賞・秋へと彼女は駒を進める。前日に激しい降雨があり、その影響で馬場状態は「重」。波乱の予兆はここにあったのかもしれない。

 レースには、錚々たるメンバーが顔を揃えた。前年のダービー馬で、前走の目黒記念・秋を制したカツラノハイセイコ。怪我のため出世が遅れたが、日経賞を制してポテンシャルの高さを見せつつあったホウヨウボーイ。京都大賞典でカツラノハイセイコを差し切って勝利を挙げた牝馬のシルクスキー。2年前の有馬記念勝ち馬、カネミノブ。プリテイキャストにとっては、どれも格上の存在だった。

 ゲートに難があるプリテイキャストだったが、他馬が控えたため難なく先頭を奪い、単騎逃げのかたちを決め込んだ。続く2~3番手にはカツラノハイセイコ、ホウヨウボーイが続いた。

 1周目のゴール板を過ぎるあたりからプリテイキャストが行きたがったが、鞍上の柴田はそれも想定内のことで、ややセーブを利かせつつ、彼女の機嫌を損ねることなく、なかば走りたいように走らせた。その結果、後続との差はどんどんと広がり、後続といちばん離れた際には100mほどもあった。

 後続の騎手たちも「このまま逃がすのはマズい」と思いつつも、有力馬どうしの駆け引きに拘泥し、積極的に前を追おうとする馬はいなかった。

 のちに柴田が「後ろと離れているのは分かっていたが、これほどだとは思わなかった」と振り返ったように、2周目の第3コーナーからペースを上げてロングスパートに入り、後続も最終コーナーへ向かってようやく追撃にかかった。

 しかし、それはあまりにも遅すぎる決断だった。「直線へ向いても後ろの足音が聞こえないんで『おかしいな』と思って少し振り返ったら(凄い差があって)驚いた」とのちに柴田が回顧したように、プリテイキャストと後続にはまだ数十メートルもの差があった。

 懸命に逃げ込みをはかるプリテイキャスト、必死に追撃する有力馬たち。だが、直線半ばで勝負は決していた。最後は“バタバタ”になったものの、それまでの貯金がものを言って、単勝8番人気の小柄な牝馬は2着のメジロファントムに7馬身もの差を付けて、世紀の逃走劇を完遂させたのだった。

 “してやったり”の大逃げで天皇賞初制覇を成し遂げた柴田は、「勝つときはこんなもんだよ」と笑みを浮かべながら答えたという。

 1984年から芝2000mに短縮された秋の天皇賞では数々の牝馬が勝ち星を挙げているが、プリテイキャストを最後に3200mの天皇賞で牝馬の優勝馬は現れていない。

三好達彦

1962年生まれ。ライター&編集者。旅行誌、婦人誌の編集部を経たのち、競馬好きが高じてJRA発行の競馬総合月刊誌『優駿』の編集スタッフに加わり、約20年間携わった。偏愛した馬はオグリキャップ、ホクトヘリオス、テイエムオペラオー。サッカー観戦も趣味で、FC東京のファンでもある。

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