JRAにピンポイントで「潰された」殿堂馬……「障害最強馬」オジュウチョウサンが超えるべき「最後の壁」は、強過ぎるが故の”歴史的遺恨”
しかし、グランドマーチスの場合は平地の万葉Sを制し、念願のオープン入りを決めた僅か2か月後に障害馬としてのデビュー。障害未勝利戦からやり直している。平地の初勝利こそダート1400mだったが、初の3000mの万葉Sでステイヤーの素質が開花。この時代の天皇賞は春も秋も3200m。本来なら、ここから天皇賞馬になってもおかしくはなかったはずだ。
だが実は、本馬が急遽障害入りを果たしたことには、この時代ならではの理由があった。
グランドマーチスを管理していたのは、スーパークリークなど数々の名馬を手掛けた名伯楽・伊藤修司調教師。当時、その伊藤厩舎の所属としてデビューした新人の寺井千万基は、騎手としては体重が重く、障害レースでしか騎乗できなかったのだ。
それにもかかわらず、当時の伊藤厩舎に障害馬は「0」。新人騎手の面倒を積極的にしっかり見る風習があった時代であり、状況を重く見た伊藤調教師が白羽の矢を立てたのがグランドマーチスだったのだ。
無論、平地馬として脂が乗ってきたグランドマーチスをあえて選んだことには根拠があった。姉が障害で3勝を上げていたことも然ることながら、実は祖母のハクレイが牝馬ながらに中山大障害を勝つほどの名ジャンパーだったからだ。
つまり、グランドマーチスのステイヤーの資質は母方の血が強く影響しており、本馬は平地馬としてだけでなく、障害馬としてはさらに”良血馬”だったということだ。
幸い、オーナーの大久保常吉(名義は大久保興業)氏と伊藤調教師は皐月賞馬マーチスの成功などを経て、深い信頼関係で結ばれていた。そもそも、このグランドマーチス自体がマーチスのような成功を意識して名付けられたという説がある。