大阪杯ヤマカツエースに宿る池添親子の”野望”。父が導き出した「至高の馬体」と息子が編み出した「究極の競馬」が”鬼門”の仁川で開花する
その内、宝塚記念はレース前から主戦の池添謙一騎手が「秘策がある」とほのめかしており、大外枠から後方で競馬した。だが、それがかえって”よそ行きの競馬”となり裏目に出た格好だったため度外視できる内容だ。
では何故、池添謙一騎手がそのような奇策に出たのかは、その前の鳴尾記念のレース運びを見ればわかる。このレース自体は完ぺきに近かったのは、それまでの2000mの重賞を勝った時の競馬と比較すれば明らかだ。
福島記念(G3)1着 各コーナー通過順位[9-9-6-2] 中山金杯(G3)1着 各コーナー通過順位[5-5-4-2]
鳴尾記念(G3)6着 各コーナー通過順位[6-5-3-2]
上記の通り、ヤマカツエースの好走パターンは中団外目を追走し、勝負所の3、4コーナーでまくりをかけ、最後の直線入り口で先頭に並びかけるものである。鳴尾記念でも池添謙一騎手は”それ”を実践したが、直線伸びを欠き6着。ほぼ同じ位置取りから競馬したサトノノブレスが勝利していることからも、戦術としては間違っていなかった。
中山のニュージーランドT(G2)や中山金杯を完勝していることからも、阪神の坂で止まったということは考え難い。つまり、結果的には鳴尾記念の惨敗はコース適性というより、京都記念以来の休み明けだった馬体の方に問題があったということになる。
そこから池添謙一騎手は札幌記念(G2)、天皇賞・秋と好位から先行競馬を試みたが、ともに結果はでなかった。
その後、昨年12月の金鯱賞で1月の中山金杯以来となる勝利を上げたヤマカツエースだが、その要因は馬体回復だけでなく、レース運びが明らかに変化していることも挙げられる。それは先述した過去の2000mの勝ちパターンと、連覇した金鯱賞を比較すれば一目瞭然となる。