JRA「伝説4兆円超え」1997年ってどんな年? エアグルーヴが年度代表馬、武豊騎手の弟・武幸四郎騎手がデビュー

撮影:Ruriko.I

 昨年3兆2539億707万6200円を売り上げ、前年比105.3%。11年連続の売り上げ増となったJRA(日本中央競馬会)。

 特に象徴的だったのが、豪華メンバーが集った年末の有馬記念であり、売上は約521億円と他のレースを圧倒。ちなみに有馬記念の売上が500億円を超えたのは2004年以来、18年ぶりの快挙だった。

 改めて、現在の「競馬」の盛況ぶりがうかがえる数字だが、過去最高の4兆6億6166万3100円(1997年)には、まだまだ及ばないことも事実だ。今では「伝説」と言わざるを得ない売上4兆超えは、ざっくり言えば今の約1.5倍である。

 では、その「1997年」とは一体どんな年だったのか。改めて振り返ってみたい。

 JRAの売上最高潮と言われると、やはり多くのファンは突出した「スターホースの存在」を意識するだろう。かつてのオグリキャップやディープインパクトのように社会現象を巻き起こすほどのスターが出現すれば、世間から「競馬」が大きく注目され、必然的に馬券売上の向上も見込めるからだ。

 だが、1997年の年度代表馬はエアグルーヴである。

 エアグルーヴは、タイトルホルダーやスターズオンアースを輩出した種牡馬ドゥラメンテの祖母としても知られる歴史的名牝だが、当時オグリキャップやディープインパクトほどの注目を集めた馬ではない。

 この年に勝ったG1も天皇賞・秋の1勝だけであり、他にもサニーブライアンやタイキシャトル、メジロドーベルといったG1・2勝馬がいたが「17年ぶりの牝馬による天皇賞制覇」という点が評価されて年度代表馬に選出された。つまり、エアグルーヴは1997年を代表するに相応しい存在だったが、馬券売上の観点から見れば、そこまで大きな影響を与えたわけではなかった。

 また、当時は全国の地方競馬との交流元年となる1995年から急速にダート路線の整備を実施している時期でもあった。

 1997年にはフェブラリーSがJRA史上初のダートG1として実施されている。また、いくつかのダート重賞も新設され、こうしたダート路線の整備が売上増にもつながったといえるだろう。ちなみに最初のダート王はシンコウウインディと岡部幸雄騎手である。

武豊騎手の弟・武幸四郎騎手がデビュー

 さらに競馬が世間から大きく注目されたのが、武幸四郎騎手のデビューだ。

 競馬人気の第一人者・武豊騎手の実弟として大注目の中でデビューした武幸四郎騎手は、その初週に重賞(マイラーズC)を勝つという離れ業を達成。「天才」と称される武豊騎手の弟がいきなり大レースを勝ったのだから、競馬の垣根を超えた世間が騒ぐのも当然か。

 残念ながら体重調整などの影響で早期の引退となったが、兄とは違い大レースで度々人気薄の馬で穴をあける穴ジョッキーとしてファンから愛された。

 他にもナリタブライアンが顕彰馬に選出されたことや、ホクトベガのドバイでの悲劇、武豊騎手のJRA全場重賞制覇達成、ハクホウクンが白毛馬として初勝利を挙げるなど、1997年にも様々なニュースを生んだ競馬界だが、爆発的に売り上げを伸ばした点は見当たらない。

 つまりJRAが史上初の売上4兆円を達成した1997年は、決して歴史的な一年ではなかったということだ。

 JRAが公式HPで公表している最初の年間売上は112億2931万円(1954年)。そこから年々売り上げを伸ばし続け、1966年には1000億円超えを達成。グレード制が導入される頃の1979年には初の1兆円の大台に突入と、急激な成長を見せている。

 さらに時代はバブル期に突入。武豊騎手の登場、シンボリルドルフやオグリキャップといった国民的スターホースの誕生も相まって、競馬の売り上げはどんどん加速。1988年に2兆円に到達したかと思えば、そのわずか2年後の1990年には3兆円を突破している。

 その翌年にバブルが崩壊するのだが、競馬の勢いは止まらない。一時ほどの売上増は見込めなくなったものの、毎年着実に売上を伸ばし1997年には初の4兆円を突破。これが売上のピークである。

 JRAはその後、1998年から2011年まで14年連続で前年を下回る低迷期に突入するのだが、冒頭で触れた通り2012年以降は11年連続の売上増と勢いを取り戻している。

 果たして、この2023年はどこまで売上を伸ばすことができるのか。未曽有のコロナ禍を乗り越え、もう一度、伝説の4兆円突破へ――。JRAの勢いは、まだまだ加速していくに違いない。

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