「正直なところ辟易としています」武豊が巻き込まれた29年前のアイドルホース狂騒曲…レース前に明かしていた「コンビ結成」の裏話
3月も中旬に差し掛かり、日中は長袖なら汗ばむくらいの陽気で、まさにうららかな季節を迎えつつある。
そんな日の昼下がりにふと思い出したのが約30年前に一世を風靡したアイドルホースである。その名もハルウララ。当時を知らない若年層には『ウマ娘 プリティーダービー』(Cygames)を通じてこの馬を知ったというファンも多いだろう。
当時は第二次競馬ブームもすでに終焉しており、特に地方競馬は経営が成り立たず、各地で廃止が相次いでいた頃。そんな時代に突如現れたのが父ニッポーテイオー、母ヒロインの小柄な牝馬だった。
1996年、北海道三石の小さな牧場に生まれたハルウララは2歳の時に高知に入厩。400kgにも満たない小さな馬体にもかかわらず、月2回のペースで健気に走り続けた。ところが、いくら走れども、先頭でゴールを駆け抜けることはなかった。惜しい2着や3着は何度かあったが、7歳の夏にはデビューからの連敗が「90」を超え、大台に近づいていた。
メディアで頻繁に取り上げられるようになったのはちょうどこの頃。100敗目を喫したレース(ハルウララ100戦記念特別)では、発走直前まで単勝オッズ1.0倍を示すほどの人気を博していた(最終オッズは1.8倍)。
そんなハルウララが106敗目を喫したレースで鞍上を務めていたのが他でもないJRAの武豊騎手である。当時は騎手として最盛期を迎えていた35歳の武騎手だが、“勝てない”ハルウララに騎乗した背景にはちょっとした行き違いもあったようだ。
レース前に明かしていた「コンビ結成」の裏話
武騎手は当時開設していたポータルサイト「@nifty」のブログである裏話を記していた。
武騎手とハルウララがコンビを組んだのは2004年3月22日。この日はメインレースに交流重賞の黒船賞(G3)が組まれており、「ノボトゥルーがドバイを辞退してここに使う」ため、武騎手の来場が決定。それを受けて、「ハルウララにも騎乗可能となった」のだという。
04年2月26日付のブログには「そのレースで引退ということなので、とにかく無事にというのがボクの気持ち」と綴った武騎手だが、この内容にはすぐさまクレームがつけられたのだとか。
武騎手は数日後のブログで「高知競馬の関係者から『大きな通過点ではありますが、決して引退ではありません』とクレームがついて、そのことについてはボクが一番驚いています」と、認識に違いがあったことを明かすと、「騎乗依頼が来たときに『最後なので是非に』と確かにそう言われてお受けしたのですから」とコンビ結成に至った背景を記した。
関係者との間に認識の齟齬もあってか「まあ、引退するかどうかは別に構わないのですが、ハルウララについてはあまりにも異常な騒がれ方で、正直なところ辟易としています。その日、ボクが楽しみにしているのはあくまでも黒船賞のノボトゥルーの騎乗なのです」と率直な思いも吐露していた。
そして迎えたレース当日、武騎手が目にしたのは異様な光景だったという。スター騎手が跨るアイドルホースを見届けようと全国から集まったファンは何と1万3000人。数百人の報道陣も加わり、普段はここまで入場者数のない高知競馬場としては、かつてないフィーバーに包まれていた。
武騎手は「勝つことこそが美しいと教わったボクの競馬観からすると、どうしても拭えない違和感はありますが」としつつも、「この盛り上がりを目の当たりにしては覚悟も固まります。ハルウララのレース後は、勝っても負けてもウイニングランをしようと心に決めました」とこの狂騒曲に一肌脱ぐ決意も綴った。
そして黒船賞直後に行われたこの日の“メイン”。ハルウララはいつも通りスタートからついて行くのもやっとの苦しい競馬で、11頭立てのブービー10着に惨敗。連敗は「106」に伸びたが、プラン通りのウイニングランを披露した武騎手はレース後に「また乗りたい」とリップサービス。場を盛り上げた。
結局ハルウララは113戦して未勝利のまま、同年8月に現役最後のレースを迎えた。引退後は紆余曲折あったが、現在は千葉県にある預託牧場で余生を過ごしている。
母ヒロインから生まれた“勝てないアイドルホース”は、苦境にあった高知競馬の救世主となり、今後も語り継がれていく存在になっている。