消えた武豊の三連覇。7㎝で逃した三冠の偉業……「10の悲劇」から過去のダービーを振り返る。
1973年第40回:タケホープ(優勝)
当時は日本中がハイセイコー人気に沸き、このダービーもハイセイコーが断然の人気を集め勝利はほぼ確実とみられていた。逆にタケホープは単勝9番人気にとどまり脇役の一頭でしかなかった。だがレースはそのハイセイコーを差し切り1秒近い差をつけて勝利。しかし競馬場に集まった13万人のほとんどはハイセイコーの勝利を期待したファンであり、競馬場は異様なざわめきに包まれタケホープを称える声は少なかった。数多いダービーの中で静かな勝利だったといえるかもしれない。
1977年第44回:マルゼンスキー(未出走)
朝日杯3歳ステークスで2着に大差を付けるレコードで圧勝するなど、デビューから6戦6勝と圧勝を続けていたが、外国からの持ち込み馬だったため当時内国産限定のダービーには出走できず。「賞金もいらない、大外枠でいい、他の馬に迷惑をかけないから出走させてほしい」と中野渡騎手が語っていたのは有名な話。その年のダービーを勝利したラッキールーラとの直接対決はなかったものの、菊花賞馬プレストウコウには日本短波賞で圧勝しており、世代屈指の実力があったのは紛れもない事実。その後ダービーは持ち込み馬、外国産馬にも開放された。産まれた時代が悪かったといえるだろう。
1987年第54回:サクラスターオー(未出走)
父は同じ馬主が所有していた第45回ダービー馬サクラショウリ。皐月賞は後続を突き放して快勝、ダービーも有力視されたが、繋靱帯炎を発症し回避して秋まで休養に入る。復帰戦となった菊花賞はその年のダービー馬メリーナイスに完勝しており、無事にダービーに出走していれば三冠馬になった可能性は大きかっただろう。
1990年第57回:アイネスフウジン(優勝)
馬主の小林正明氏は馬主資格を取得した翌年にアイネスフウジンで朝日杯3歳ステークス、その翌年に日本ダービーを優勝。馬主歴2年でダービーオーナーの称号を手に入れた。その後小林のもとに生産者による営業が頻繁に続き、多くの競走馬を購入するも活躍馬は出ず。さらに本業が悪化し会社の資金繰りに自らの死亡保険を活用するよう遺言を遺し自殺。もしかしたらダービーの優勝が人生の歯車を狂わせてしまったのかもしれない。
1997年第64回:シルクライトニング(競走除外)
皐月賞でこの年のダービー馬サニーブライアンの2着に好走したシルクライトニング。デビューから9戦して2勝2着6回3着1回という安定した成績を残しており、鞍上の安田富男騎手はダービーでの巻き返しに相当自信があったという。しかしスタート直前になったところで落鉄(蹄鉄が蹄から外れること)。その影響で怪我をしてまさかの競走除外になってしまった。「頭が真っ白になってどうやって戻ってきたか覚えていない」と安田が語っていたように、一生に一度しかないようなビッグチャンスを逃したショックは大きかった。なおシルクライトニングは緊張の糸が途切れたのか、その後7戦するもかつてのような堅実な走りを見せることはできずすべて6着以下に敗退、引退となってしまった。