伝説の日本ダービー馬カブラヤオーが刻んだ超ハイペース。武豊さえ手が届かない前人未到の偉業を成し遂げた菅原泰夫【競馬クロニクル 第12回後編】
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カブラヤオーがここで見せた逃げも凄まじかった――。
菅原に気合を付けられて先頭を奪うと、前半の1000mを58秒9という当時としてはスプリント戦に匹敵する超ハイペースで飛ばしながら、直線でしぶとく“二の脚”を使い、2着のロングホークに2馬身半の差を付けて逃げ切ってしまったのである。
敗れた騎手たちからは、「どうしてあんなに無茶なペースで逃げ切れるのか」「あのハイペースは殺人的だ」というような呆れ気味な声が飛んだと伝えられている。
菅原にとって、この春3つ目のクラシックはテスコガビーと臨むオークスとなる。しかし、その前に出走した4歳牝馬特別をオーバーワークのためか3着に敗れたこともあり、オークスの単勝は1番人気ながらオッズは2.3倍と、桜花賞よりもかなり支持率を下げていた。
しかし、本番に臨んだテスコガビーの強さはまったく破格のものだった。
予定どおりに先頭を奪うと、菅原は距離延長を考慮してペースをスローに落として進むが、桜花賞で“超ハイペース”を見せられたトラウマがある後続は競りかけようとせず、テスコガビーはマイペースに持ち込んで道中を進み、悠々と直線へ向いた。
すると、ここからは桜花賞と同様にまたもワンサイドゲームに持ち込んで、2番手以下をぐんぐんと突き放し、ゴールでは2着のソシアルトウショウに8馬身差を付けて二冠制覇を達成したのである。
当時、現場で彼女の走りを見ていた元記者や関係者は、いまでも「テスコガビーが史上最強牝馬だ」と言って止まない者は少なくない。
こうして“春季クラシック”三冠を制した菅原に残されたのは、日本ダービーという最高にして最難関の大舞台だった。
菅原とカブラヤオーはNHK杯の快勝をステップに臨んだこのひのき舞台で、まさかの苦闘を強いられることになる。出ムチをくれて先頭を奪ったカブラヤオーは27頭を従えて逃げをうつが、人気薄のトップジローが絡んできたため、思うようにペースを落とすことができない。
刻んだラップタイムは1000mの通過が58秒6という“殺人的”とまで言われた皐月賞のハイペースをさらに上回るものとなった。
時計を見ずとも分かる超ハイペースに、誰もが「カブラヤオー危うし」と思った。しかし、ここから見せた快走がカブラヤオーが非凡たる所以となる。
先頭で直線へ向いたものの、非常識なラップを刻んだカブラヤオーは苦し気にふらつきながら外へ外へとよれていく。ところが菅原がムチを入れて彼の闘志を引き出すと、苦しみながらも最後の脚を使い、迫るロングファストに1馬身1/4の差を付けて逃げ切ったのである。まさに奇跡の走りだった。
こうしてカブラヤオーは皐月賞と日本ダービーを、テスコガビーは桜花賞とオークスの各二冠を、そして菅原泰夫は春季クラシック四冠完全制覇という偉業を達成した。ちなみにこれは武豊でさえ成し遂げていない(1993年の桜花賞、皐月賞、オークスが最高記録)前人未到の記録である。
そして愛馬が現役を引退してから、菅原はカブラヤオーが取り続けた「逃げ」という戦法について、
「子どものころ他の馬に蹴られたらしく、馬込みを極端に嫌がる馬だったから、力を出し切るには逃げるしかなかったんだ」
と、彼の臆病な性格ゆえの戦術だったことを近しい記者に明かしている。その事実はカブラヤオーの現役中、ずっと関係者のみが知る秘密とされていたのだった。
カブラヤオーはその後に屈腱炎を発症して三冠馬にはもちろん、以後ビッグレースに勝つことはできなかったが、種牡馬として1988年のエリザベス女王杯を制するミヤマポピーを出した。
テスコガビーは二冠制覇後に脚部不安にたびたび襲われ、1976年5月の復帰戦を6着に大敗。その後、調教中に心臓麻痺で落命するという不運に見舞われる。その貴重な血を後世に伝えられなかったことは、日本競馬にとって大きな損失だった。
大記録を残した菅原泰夫は、その後も地道な努力を積み重ね、1981年にミナガワマンナ、1982年にホリスキーで史上初の菊花賞(G1)連覇を果たし、これも無二の記録として残っている。
6431戦769勝。G1(級)7勝。重賞36勝。決して派手ではないが、地道な努力によって積み上げられたこの成績は、菅原の実直な生き様を表している。
そしていまなお、栄光の1975年春は、あらゆる騎手の前に高く高く屹立している。(文中敬称略)