東京競馬場に約20万人が殺到!? 朝6時からの大行列、怒号飛び交う陣取り合戦、そして…競馬が最も熱い時代、歴代最多入場者を記録した当時の記憶

 19万6517人。

 まるで小都市の人口のような驚愕の入場人員レコードを叩き出したのが、1990年の日本ダービー(G1)である。

 この年は、22歳の横山典弘が手綱をとるメジロライアンが1番人気、大一番にテン乗りで手綱を託された武豊が乗る皐月賞馬ハクタイセイが2番人気と、20代のヤングジョッキーが人気を集めていた。

 しかし、人気では前記の2頭に後塵を拝したものの、ベテランの中野栄治とともに絶妙なペースで逃げを打ち、メジロライアンの追い込みを問題にしなかった3番人気のアイネスフウジンが優勝。ウイニングランの際、自然発生的に沸き起こった「ナカノ・コール」でも知られるのが、この年の日本ダービーだ。

 レコードラッシュであり、エポックメイキングな出来事があった57回目の日本ダービーは何かと取り上げられることが多い。その一方、古い話ということもあって実際に現場で何が起こっていたのかを語られることは少ない。

 そこで、当時はまだ競馬マスコミとは無縁の、単なる“開門ダッシュ”青年だった筆者が、データとリアルな記憶の両面から振り返ってみたい。

「バブル景気」という言葉は若年のファンもご存じだろう。1980年代後半から1990年代初頭に日本で沸き起こった不動産や金融商品の異常な高騰などによって引き起こされた、実体経済とはかけ離れた内実のない好景気のことだ。

 現在と同じで「持つ者」と「持たざる者」の差によって受け止め方は違ったが、会社勤めの人は、接待交際費が青天井になったり、タクシーチケットが使い放題になるなど、ビジネス上の様々な局面で“バブル”を感じることになった(ちなみにテレビでバブルが語られる際によく使われる『ジュリアナ東京』だが、この店が開店したのは1991年というバブル景気の末期で、1994年には閉店している)。

 この好景気に押されて、中央競馬の売り上げも急増。1977年に1兆円を超えると、1988年には2兆円に到達。そして、それからわずか2年後の1990年には3兆円を突破してしまったのだ。1兆円から2兆円に至るのに11年を要していることを考えると、いかに凄まじい売り上げ増だったのかが分かるだろう。

 もうひとつ、競馬ブームに大きな貢献を果たした馬がいる。言わずと知れた“芦毛の怪物”オグリキャップである。

 1988年に笠松から中央へ移籍すると重賞を5連勝。その秋にはタマモクロスとの3度にわたる激闘を繰り広げ、ファンを熱狂させるとともに、競馬の枠を越えた支持を受けるように。翌89年はスーパークリーク、イナリワンと三すくみの鍔迫り合いを繰り広げた。

 そして、今回のテーマである1990年にはラストランとなる有馬記念(G1)で復活勝利を遂げ、「オグリ・コール」が沸き起こったのはご存じのとおり。このときの入場者、17万7779人は今も中山競馬場のレコードであるとともに、歴代でも当年の日本ダービーに次ぐ2位となっている。

 ここからは筆者の体験を交えて、1990年の日本ダービー当日の様子を交えながら記していく。

撮影:Ruriko.I

 この数年前から、特にG1レースでは泊まり込みの人を含めて、開門の何時間も前から数千人ものファンが押し寄せるようになっていた。そのため危険な状況の回避を目的に開門時間の繰り上げがしばしば行われていたのだ。

 しかし、チケットが開催競馬場における手売りである限り、自分の気に入った席や場所を確保するためには結局、早く待機列に並ぶしかないこともあり、どんどん“座席(場所)争い”が過熱していった。

 筆者が東京競馬場で観戦する際、旧スタンド2階、ゴール正面付近の自由席を“定位置”としていた。1990年ごろは会社勤めをしていたため、さすがに泊まり込みまではできないが、G1デーの東京と中山へ行く際は始発に乗ってスタートするのが常だった。

 当日も予定どおり始発に乗り込み、競馬場に着いたのは6時ごろだったと思うが、入場ゲートの前にはとてつもなく長い待機者の列ができており、警備員がその整理に大わらわという状態。もはや警備員では手に余る事態に陥っていたからだろう、開門は7時ごろに繰り上げられ、待機列を区切りながら順次入場していくスタイルがとられた。

 筆者は出遅れながらも、どうにか“定位置”付近の座席を確保。ホッとひと息ついていると、周囲の席も瞬く間に埋まっていき、開門から30分もしないうちに自由席は満員。スタンド前の立ち見スペースも席にあぶれたファンに埋め尽くされていた。まだ第1Rのスタートまで2時間以上前のことである。

 東京競馬場は第1Rの未勝利戦からゴール前の争いに大きな歓声が上がるなど、異様な熱気に包まれた。そしてスタンドは時間が経つごとにどんどんファンの数が増していき、酷い混雑ぶりに怖れを成した人たちや子ども連れのファミリー客の相当数が障害コースまで開放された内馬場へと向かった。

 それでもスタンドの混雑状況は、昼頃には座席のブロック間に設けられた階段で立ち見する人が多数出るなど、混雑の度合は上がる一方。トイレに行くのさえひと苦労、馬券を買いに言ったら自席に戻るのにまたひと苦労という状態になり、方々で怒鳴り声が聞かれる危険なムードが漂った。

 この危険な状況に拍車をかけたのが、当時の馬券発売のスタイルである。

 翌年からはマークカードが採用されて購入の際の手間が省かれたが、この年までは発売窓口で係員に買い目と金額を口頭で伝えるという極めてアナログな方法であったため、客とのやりとりにかなりの時間を要し、それに伴うトラブルも少なくなかった(ちなみにマークカードを採用してからも自動販売機の導入はかなり先のことで、しばらくはカードを係員に渡して発券してもらう微妙なスタイルで行われていた)。

 そのため、悠長にパドックと返し馬を見てから窓口に向かっていると締め切り時刻に間に合わず、馬券が買えなくなるという事態が各所で起こっていたのである。

 筆者はこの数年前から東京、中山のG1デーで尋常ではない大混雑を経験していたので(もはや死語だが、「だんどりクン」気質でもあったので)、早めに売店で弁当を用意し、馬券も昼前にはメインの日本ダービーの分まですべて買い込んで、準備万端でメインレースのスタートを待った。

 日本ダービーの本馬場入場が始まるころには、馬券の発売窓口はどこに列の末尾があるのかさえ分からず、購入に手間取る客に向かって「おい、早くしろ!買えねーぞ」などの怒号が飛び交い、通路の階段でレースを立ち見ようとする客同士の押し合いへし合いがそこここで始まった。

 筆者が競馬場へ通いだしてから初めて「群衆の危険さ」を感じたのが、この時だった。いま考えても、よく将棋倒しの事故が起こらなかったものだと思う。

撮影:Ruriko.I

 そして、レース後の「ナカノ・コール」についても記しておく必要があるだろう。

 だが残念ながら、スタンドにいた小集団から沸き起こったコールが波紋のように広がり、いつの間にかスタンド全体を覆うほど広範なものになった、というぐらいの記憶しかないのが正直なところだ。

 いくつかのメディアが最初に声を発したのは誰なのか、どうしてコールがあれほど大きなものになったのかについて記事にしたものの、根拠の不確かなフェイクっぽい説が提示されるのが関の山で、いまもってそれについての明確な答えはないままだ。

 ただ、ひとつ言えるのは、究極の非日常に身を置いた観客の多くがナチュラルハイの状態になっていたであろうことだ。そして何処からか起こった声が、めらめらと燃える焚き木にアルコールを振りかけるがごとくに作用し、爆発的に巨大な炎となったのではないか。体験者のひとりとして、いまはそう考えている。

 前述したように同年末、オグリキャップが劇的な復活勝利を遂げた有馬記念でも、入場者が17万7779人という危険な領域にまで達した(ちなみに、レース後は船橋法典駅、西船橋駅では客があふれて入場規制が行われ、西船橋駅方面の、いわゆる「オケラ街道」まで人が大渋滞を起こした)。

 JRAは特に多くの観客が入るビッグレースを対象に、入場券を枚数制限した前売制とする対策に踏み切った。その意味でもエポックメイキングな年が1990年だったということができるだろう。

 ネット投票が当たり前のデジタルネイティヴ世代のファンにとっては、にわかに信じ難い超アナログな話だろうが、これはすべて本当の出来事だ。そして同時に、競馬が安易に手を振れると火傷しそうな危険なまでの熱を発していた時代を現場で体験できたことは、望んでも得られない貴重な経験だったと筆者は感じている。(文中敬称略)

三好達彦

1962年生まれ。ライター&編集者。旅行誌、婦人誌の編集部を経たのち、競馬好きが高じてJRA発行の競馬総合月刊誌『優駿』の編集スタッフに加わり、約20年間携わった。偏愛した馬はオグリキャップ、ホクトヘリオス、テイエムオペラオー。サッカー観戦も趣味で、FC東京のファンでもある。

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