【前編】ハクチカラ、シンボリルドルフらパイオニアたちが切り開いた海外への挑戦…日本馬の海外遠征と中継事情【競馬クロニクル 第22回】
筆者が競馬に熱中しはじめたころ、日本調教馬(以下「日本馬」)が参戦する海外のレースが、テレビ中継はもちろんのこと、その馬券まで買える日が来るなどとはまったく思ってもみなかった。
なにせ30年ほど前には、クラシックや天皇賞、有馬記念などの特別な重賞以外、関東の重賞は関西のファンが、関西の重賞は関東のファンが馬券を買えないという縛りが長くあったほどだったのだから、まさに隔世の感がある。
そこで今回は、日本馬の海外遠征史を簡単に振り返りながら、同時に海外からの中継事情を振り返ってみたい。
日本馬の海外遠征と中継事情
1900年代にロシア(ウラジオストク)へ日本の人馬が渡った例もあったようだが、一般的に知られているのは日本ダービー、天皇賞、有馬記念などを制したハクチカラが1958年に米国に遠征したのが始まりとされる。
費用の面での制約が大きかったため、ハクチカラに同行したのは騎手と厩務員を兼ねた保田隆芳と、輸送を担当する野澤組の社員の2人のみ。アンカレジで給油し、シアトルを経由して目的地のロサンゼルスへ到着したハクチカラはハリウッドパーク競馬場へ入厩。保田が手綱をとって5レースを戦い、慣れないダート競馬ということもあって最高着順は4着にとどまった。
保田はその後日本へ戻ったが、ハクチカラは渡米後の預託先だったボブ・ウィラー調教師が惚れ込んだこともあって、彼のもとに残ることになる。
次走から芝のレースに臨んだハクチカラは2着に善戦。その後も3、2、5、4着と好走を続け、迎えた1959年の2月23日。ワシントンバースデーハンデキャップ(サンタアニタパーク・芝2400m)に49.5㎏という最軽量のハンデで、出走16頭中15番人気で出走したハクチカラは、当時の賞金王であったラウンドテーブル(Round Table)らを破って優勝。日本産馬の放ったロングショット(大穴)に米国の競馬ファンも盛り上がったという。
ただし、このハクチカラの歴史的勝利だが、彼が日本産馬であることは間違いないが、当時は米国のトレーナーに預託していたので「日本調教馬」とは呼べないのが残念なところ。「元日本調教馬」程度の表現が妥当だろう。
では、このレースを映像で見ることはできないのか?ということだが、答えは「ノー」。ちなみにJRAのフォトアーカイブに残っているスチール写真も、当時の米国の新聞を複写したものだけである。
次にスポットを当てたいのが、天皇賞、有馬記念(2回)、宝塚記念を勝ったスピードシンボリである。
かねてから海外志向が強かったシンボリ牧場の場主である和田共弘と騎手の野平祐二は、招待を受けた米国のワシントンDCインターナショナル(ローレルパーク・芝12ハロン)にスピードシンボリで参戦。9頭中の5着ではあったが、それまで本レースに出た馬たちの惨敗ぶりとはひと味違う走りを見せたことから、1969年に欧州への長期遠征を敢行する。もちろん鞍上は和田の盟友、野平祐二である。
まず英国の“ロイヤル・アスコット”で開催されるキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(アスコット・芝2400m)で見せ場を作って5着と健闘すると、次はフランスへ渡ってドーヴィル大賞典(ドーヴィル・芝2600m)が10着。そして日本馬として初となる凱旋門賞(ロンシャン・芝2400m)にも参戦したが、馬群で揉まれた末、大きく離された着外に終わっている。
実況中継が無かったのは時代を考えても当然のことだが、この3戦に関しては、JRA広報室が『スピードシンボリ号 欧州へ』のタイトルで20数分のたいへん貴重なドキュメントフィルムを制作しており、2000年代にオフィシャルウェブ上で公開された。現在はアカウントが削除されているが、前記のタイトルで検索すれば見つかる可能性があるので、試してみるのも一考だろう。
その後も社台ファームの吉田善哉がギャロップダイナを、和田共弘がシリウスシンボリをフランスへ遠征させたが勝利を挙げることはできなかった。そして当時、日本の“歴代最強馬”との呼び声も高く、前年のジャパンCを完勝したシンボリルドルフを1986年3月に米国のサンルイレイS(G1、サンタアニタ・芝2400m)へ出走させたが、走路の途中を横切るダートに脚をとられる不利を受けて6着に大敗。のちに左前繋靭帯炎を発症していることが分かり、そのまま引退した。
当時の日本競馬を牽引していた社台ファームの吉田とシンボリ牧場の和田が送り込んだ精鋭でも欧米では通用しなかったという厳しい結果を突きつけられたため、しばらく日本馬は海外遠征から遠ざかることになった。
注目度が特に高かったシンボリルドルフのサンルイレイSはラジオが結果を速報し、ライブではなかったものの、フジテレビが盛山毅アナウンサーの実況を付けてレース映像を放送した。また、和田、野平と親交の厚かった写真家の今井寿恵が取材に同行しており、現地で撮った作品を多く残している。
日本馬が長いトンネルを抜けて海外から吉報を届けたのは1990年代も半ばになってからだった。場所はいまや日本の競馬ファンにもお馴染みの香港である。
国際化を進めていた香港ジョッキークラブは1988年に「香港招待C」を創設。当初は近隣のシンガポール/マレーシア地区との交流戦として行われたが、その後1992年にはその対象を日本も含む広範囲に拡大し、徐々に対象レースを増やしていくなか、日本馬は1993年のホクセイシプレー(香港招待ボウル)から遠征をスタートさせた。
なかでも、半ば“執念”とも言えるほどに香港での勝利にこだわったのが若手トレーナーとして頭角を現しつつあった森秀行だった。ミホノブルボンで知られる戸山為夫の死去にともない、師匠から引き継いだフジヤマケンザンを率い、進境著しい関東の若手ジョッキーの蛯名正義を伴って3度も海を越えた。
1994年の香港国際C(G2、シャティン・芝1800m)で4着に善戦して手応えを得たが、翌年4月のクイーンエリザベスⅡ世C(シャティン・芝2200m)では不良馬場も堪えて10着に大敗。しかし諦めない森は同年末の香港国際Cに挑戦すると、先行策からゴール前で粘り込みを狙う米国馬を差し切って快勝。平地競走では1959年に米国でハクチカラがワシントンバースデーハンデキャップを制して以来となる広義での“日本馬”の優勝であり、厳密に言う“日本調教馬”としては初となる海外での国際重賞勝利となった(前記の2レースは現在G1レースに格上げされている)。
筆者はこのとき競馬雑誌の編集部で働いていたが、香港へ取材に入ってもらったのは外部のライターとカメラマンの2名のみ。ライブ中継がなかったため、レース終了後に現地のライターから入ったコレクトコール(かつてあった着信者払いの架電方法!)でフジヤマケンザンの快挙を知ることになる。
しかしインターネットの環境もなく、撮影もフィルムだったアナログ時代のこと。翌日、2人の帰りを待ってフィルムを現像に出し、ライターの原稿を揃えて滑り込みでページを作ったことがいまも思い出される。