武豊「裁決に呼ばれるまで気がつかなかった」史上初の悲劇に大混乱。日本ダービーで“守られた”三冠、温情采配から8年…JRAが振るった大ナタと歴史が変わった日【競馬クロニクル 第24回】
1980年代から競馬を見続けてきて「一番ダークな思い出は?」と訊かれれば、1991年の天皇賞・秋(G1)だと即答する。メジロマックイーンがG1史上初めて1位入線として降着となったレースだ。
もちろん名馬が衝撃的な最期を遂げたレースもあるが、それは悲痛なものであっても、“ダークな気持ち”とはまた別のものである。あの天皇賞・秋が、ファンに埋め尽くされた競馬場全体が醸し出した異様な緊張感は、今もまざまざと筆者の脳裏に刻まれている。
天皇賞が行われた10月27日、東京は早朝から降り始めた激しい雨が間断なく競馬場のターフを叩き続け、馬場状態は当日最初に芝コースを使った第3Rからずっと「不良」のまま。メインレースを迎えるころには空が黒い雲に覆い尽くされ、点灯されたライトがターフを照らすような有様だった。
大本命は前年の菊花賞(G1、京都・芝3000m)を制してスターダムにのし上がったメジロマックイーン。本年には天皇賞・春(G1、京都・芝3200m)を制し、宝塚記念(G1、京都・芝2200m)こそ同期のメジロライアンの2着に敗れたが、秋初戦の京都大賞典(G2、京都・芝2400m)は2着に3馬身半(0秒6)もの差を付けて圧勝。不動の王者として天皇賞の春秋連覇をかけての出走となり、道悪が得意なことも味方して、単勝オッズ1.9倍の1番人気に推された。
ただ一つ懸念材料とされたのは、最初のカーブである第2コーナーまでの距離が短い東京の芝2000mコースでは圧倒的な不利とされる外枠、13番枠に入ったことだったが、それを補って余りある力量差があるというのがファンの評価だった。
対抗……否、“連下”と評価されたのは、無冠の期待馬ホワイトストーン(単勝オッズ4.8倍の2番人気)と、今回がG1初挑戦となるが、重賞2連勝中で昇竜の勢いを見せるプレクラスニー(単勝オッズ8.7倍の3番人気)の2頭。オッズが一桁台はこの3頭のみ。4番人気のカリブソング(11.6倍)以下は二桁、三桁のオッズを示していた。
一時小止みになっていた雨が再び激しくなったなかで迎えたレース。フルゲート18頭がいっせいにスタートを切るが、好スタートを切ったメジロマックイーンが先頭を窺う勢いで飛び出し、プレクラスニーがそれに続くかたちで馬群は第2コーナーを回っていく。
スタート直後から起きた混乱はスタンドからはほとんど確認できなかったが、この時点で着順掲示板には、すでに「審議」の意味を示す「審」の文字と青ランプが灯っていた。これはパトロールタワーから監視している裁決委員が危険な事象を把握した時点で、手元のボタンを押すと示されるものだ。
向正面に入るとプレクラスニーが先頭を奪い、ホワイトストーン、メジロマックイーンがそれに続き、この3頭が後続をやや引き離して進んでいく。
1000mの通過が61.1秒という、不良馬場としては淀みのない流れでレースは進み、プレクラスニーが先頭のまま直線へ向く。しかし、その直後には余裕の手応えでメジロマックイーンがマークするように進み、直線の半ばで鞍上のゴーサインを受けると一気に先頭へ躍り出る。そして、プレクラスニーとの差をぐんぐん広げて独走態勢に持ち込むと、ゴールでは6馬身(1秒0)差を付けてトップで入線。手綱をとった武豊は左手で軽くガッツポーズを見せた。
単勝1.9倍の大本命。我らがヒーローの圧勝劇に、審議の場内アナウンスも耳に入らないぐらいの騒ぎで、スタンドも大いに盛り上がった。
1頭だけ本馬場を引き揚げてきたメジロマックイーンと武豊に歓声はさらに高まり、武は何度もこぶしを天に向けて突き上げ、ゴーグルをスタンドに投げ込むほどに喜びを表した。
しかし、なかなか確定のランプが灯らないことに気付いたファンがザワ付き始め、徐々に異様な雰囲気が場内を包み始める。
その頃、地下の検量室では被害馬の騎手がビデオ室に呼び込まれて次々と裁決の聴取を受け、最後に加害馬とされた武が事情を訊かれていた。
メジロマックイーンが地下馬道に消えてから10分以上が経ち、ファンのイライラが極に達しようかとするそのとき、着順掲示板に「確定」の意味を示す「確」の字が示された。そこには、それまで点灯していた一番上の「13」に替わって「10」が示されていた。つまりメジロマックイーンが降着になり、2位入線のプレクラスニーが繰り上がりで優勝となったことを表していた。
場内アナウンスでその旨が改めて告げられると、競馬場全体が騒然となった。驚きで思わずファンがあげた悲鳴、悲しみに暮れる声、降着に異議を唱える罵声……。それらが混然一体となって響き渡り、それはやがて不穏なムードに変わっていった。
筆者は当時、開門ダッシュで確保したスタンド2階、ゴール前の自由席で観戦していたのだが、その不穏な空気に一瞬、「何かが起こるかもしれない」という恐怖に襲われかけた。
幸いにして大きな騒ぎは起こらず、徐々に場内の騒ぎは収まり、プレクラスニーの表彰式が行われたが、それを祝福する雰囲気はまったくなかったと言ってよい。
現在のように、即座にパトロールフィルムが映し出されるようなシステムになっていればまた別だろうが、多くのファンが胸にもやもやしたものを抱えて家路についた。
マスコミを通じて公開されたパトロールフィルムを確認すると、メジロマックイーンがスタート直後から内へ切れ込み、横のプレクラスニーを押圧すると、後続が行き場を無くして大混乱となり、なかでもいちばん大きな不利を受けたプレジデントシチーに騎乗した本田優は馬上でバウンドするように落馬寸前の状態になっていた。これを見たモガミチャンピオン騎乗の小島太は、「レース中に馬が横向きに走っているのは初めて見た。(本田は)よく落ちなかったものだ」と感想を語っていた。
レースの翌日からもさまざまな憶測が乱れ飛んだが、武は「裁決に呼ばれるまで気がつかなかった」とコメントしている。実際、何度もパトロールフィルムを見直すと、武が功を焦って強引に内へ切れ込んだというよりも、メジロマックイーンが自然なこととして第2コーナーを目指した結果が招いたトラブルのようにも筆者は感じている。
ちなみに「降着制度」がJRAに取り入れられたのはこの年からのことで、それまでは進路妨害があった場合、過怠金(罰則金)や騎乗停止処分が課されるか、または失格かのどちらかしかないのが現実で、いきおい裁決に無理が生じることも多かった。
たとえば1983年の日本ダービー(G1)においては、大本命のミスターシービーが第4コーナーで外にいた馬を弾き飛ばしたうえ、その後ろにいた馬の進路を横切って進路妨害するという事象が起こった。すわ「失格か」と大きな騒ぎになったが、結果、ミスターシービーは失格にならなかったものの、手綱をとった吉永正人には開催4日間の騎乗停止という苦しい裁定が下されたことがある。これはビッグレースにおいての判断の難しさを如実に表したものと言えるだろう。
1991年の天皇賞・秋でのメジロマックイーンの最下位降着は、ことの善悪はともかく、中央競馬史にとって大きな区切りとなったのである。(文中敬称略)