「菊の季節に桜が満開」中202日の二冠達成サクラスターオー。皐月賞ソールオリエンス&中146日タスティエーラの挑戦に思い出される奇跡と悲劇【競馬クロニクル 第27回】
2000年のクラシックで皐月賞と菊花賞を制した「二冠馬」エアシャカールは、俗に「準三冠馬」とも呼ばれた。日本ダービーのみアグネスフライトにハナ差の2着に敗れたからである。もしかしたら、ダービーをクビ差で落とした今年の皐月賞馬ソールオリエンスが菊花賞で雪辱を果たせば、そう呼ばれるかもしれない。
それから遡ること10年以上、1987年にも皐月賞と菊花賞を制した「二冠馬」がいる。父に1978年の日本ダービー馬サクラショウリを、母に日本を代表する名牝系と言われるスターロツチの血を引くサクラスマイル(父インターメゾ)を持って生を受けたサクラスターオーである。
だが、同じ皐月賞と菊花賞を制しながら、サクラスターオーにはエアシャカールのようなニックネームが付くことがなかった。
日本ダービーに大敗したから? 実際はそうではなく、日本ダービーに出走することがかなわなかったからだ。
誕生後2カ月ほどで母のサクラスマイルが死亡する不運に遭ったり(その後は高齢のスターロツチが面倒をみた)、生まれつき後肢が外向していた(外向きに曲がっていた)サクラスターオーは脚部不安とも闘わねばならず、けっして順調とは言えない幼少期を過ごした。しかし、母との離乳の早さなどが自立心を育てたのは、競走馬にとってはプラス材料であった。
当時“サクラ”の冠号が付く(株)さくらコマースの所有馬はメインステーブルの境勝太郎厩舎に預けられるのが常だったが、騎乗依頼などを通じて境と親交があった1986年に平井雄二が厩舎を開業するにあたって、境厩舎に入る予定の馬を“祝い”として1頭預からせてほしいと願い出る。
するとオーナーもそれを了承し、サクラスターオーは開業間もない平井厩舎で競走馬生活のスタートを切ることになった。
1986年の10月、デビュー2戦目の芝1600m戦で初勝利を挙げたサクラスターオーだったが、脚もとの弱さは如何ともしがたく、そのあと痛めた脚の回復をはかるため約4カ月の休養を余儀なくされる。
復帰戦は翌1987年2月、東京の芝1800m戦、寒梅賞(現・1勝クラス)となり、後方からよく追い込んだものの5着に敗れた。
しかし、鞍上をそれまでの小島太から東信二にスイッチして臨んだ弥生賞では、直線4番手から爆発的な末脚を繰り出し、逃げ馬をクビ差交わして優勝。もうひとつのトライアル・スプリングSを豪快な追い込みで制したシンボリ牧場の秘蔵っこ、マティリアルと並んで“クラシックの主役”の座へと躍り出た。
マティリアルに次ぐ2番人気で皐月賞を迎えたサクラスターオーは前のごちゃつきを避けて後方14番手を追走。向正面で位置を上げつつ馬群の外へと持ち出されると、9番手あたりまで押し上げて直線へ向いた。
ややオーバーペースになったこともあって、前の集団が脚を鈍らせるなか、外から桁違いの切れ味で差し込んできたのがサクラスターオー。一気に先団を飲み込むと、後方から追い込んだゴールドシチー、マティリアルを抑え込み、2着に2馬身半差の圧勝で1冠目を制した。完勝と言っていい内容だった。
「ダービーは決まった」
そんな声が聞こえるようになったさなか、サクラスターオーは繋靭帯炎を発症していることが判明。全治4カ月の診断が下り、事実上、ダービーへの参戦は不可能となった。
「どうにか菊(菊花賞)に出してやりたい」と、平井はサクラスターオーの治療に力を尽くした。開業して間もなくのことではあるが、この先、これだけの馬に出会えるかどうかわからないという強い思いに駆られてのことだった。
最初は自ら遠方にある温泉から炎症に効果があると耳にしていた源泉水を運んでは、その水を使ってマッサージに励んだ。そしてのちには『馬の温泉』として知られる福島県いわき市のJRA競走馬総合研究所常磐支所へ滞在させ、治癒に励みながら、脚に負担がかかりにくいプール調教も施した(ちなみにプール調教では、過去に入所した馬とは比べ物にならないほど速いタイムを計時していたという)。
9月に美浦トレセンへ帰厩し、いまだ完治したとは言えない状態のもとで、故障箇所を悪化させないよう神経をすり減らしながら調整を進めた。もちろん強い調教などできるはずもなく、栗東トレセンへ移動しての追い切りも“流す”のみで終えた。
怪我明けの馬が“ぶっつけ”で参戦することでさえ大きなリスクファクターである上、最終追い切りの状態を見て、ほとんどの記者はサクラスターオーに見切りをつけた。
馬体重は前走の皐月賞と比べてマイナス4キロと、数字上は格好をつけられたが、けっして見栄えのする状態とは言えず、単勝も9番人気にとどまった。
しかし、彼は奇跡を起こす。
9番枠からスタートしたサクラスターオーは中団馬群のインで折り合いを付けて進むと、最後の直線では馬群がばらけやすい内を突いて進出。前を行く2頭のあいだを割るようにして先頭に立つと、鞍上の叱咤に応えて外から追い込むゴールドシチーやユーワジェームスを抑えて先頭でゴール。
陣営さえも考えていなかった、飛び切りのミラクルを達成したのだった。関西テレビ(フジテレビ系)で実況中継を担当したアナウンサーの杉本清がゴール前に発した「菊の季節に桜が満開」という名セリフは多くのファンの胸に残っている。
皐月賞と菊花賞で「二冠」を制覇したのは、トサミドリ(1949)、ダイナナホウシュウ(1954)、キタノカチドキ(1974)、ミホシンザン(1985)に続いて史上5頭目のこと。「中202日でのG1連勝」というのも、現代競馬では有り得ない記録だった(ちなみに今年のダービー馬タスティエーラは中146日の出走になる)。
これは筆者の私見だが、サクラスターオーが『馬の温泉』のプール調教で過去最速の時計を出したように、彼の非常に優秀な心肺能力が長丁場となる菊の舞台でものを言ったのではないかと考えている。
当初、サクラスターオーは休養に入り、翌年の天皇賞・春を目指す予定でいた。ところが有馬記念のファン投票で3歳馬ながら1位になったことから陣営の気持ちは揺らぐ。結局、スターオーの調子が上がっていたことから昔気質の厩舎人らしく「ファンの期待には応えなければならない」と参戦の意志を固めた。
僅差ながら単勝1番人気で有馬記念に臨んだサクラスターオーは、2周目の第3コーナー付近からスパートに入った途端、急激にペースダウン。直線に入るところで東信二が下馬し、ファンは彼の身にただごとではない事態が降りかかったのに気付いた。
左前脚繋靭帯断裂、第一指関節脱臼という重傷で、医師は安楽死処分をすすめた。しかしオーナーや平井は、それでも種牡馬にする希望が諦めきれず、困難な延命治療を選択した。
サクラスターオーは厩舎をあげて代わるがわる面倒を見た。彼は何度か「2度目のミラクル」を期待させるほど状態が好転することもあったという。しかし、それは起きず、衰弱が限界に達した1988年5月12日、安楽死の処置がとられた。
それから30年以上が経ったいまも、菊花賞のシーズンになると、淀の西日を浴びながらゴールを駆け抜けたサクラスターオーの雄姿が瞼に浮かぶ。彼の思い出は、それだけで十分すぎると私は思っている。(文中敬称略)