主戦・武豊不在「代打ルメール」で2度目の王者返り咲き。「砂のディープインパクト」が魅せた不屈の闘志【競馬クロニクル 第33回】
チャンピオンズC(G1、中京・ダート1800m)の前身となるジャパンCダート(G1)が創設されたのは2000年のこと。当初は東京の2100mが舞台だったが(2002年の第3回は東京競馬場リニューアル工事のため中山の1800mで施行)、2008年には阪神の1800mに移行。現在と同じ中京の1800mでの開催となったのは2014年の第15回からで、この際にレース名もチャンピオンズCと改められた。
ジャパンC時代に名を馳せたといえば、何と言っても2001年、第2回におけるクロフネの快走だろう。
天皇賞・秋(G1)に外国産馬2頭の枠に入れず、仕方なく回った初のダート戦、武蔵野S(G3)で2着のイーグルカフェに9馬身差をつけて圧勝。走破タイムの1分33秒3は芝なみの時計で、従来のレコードを1秒2も更新して関係者とファンを驚かせた。
そして続く第2回ジャパンCダートでも恐るべき豪脚を繰り出し、第4コーナーを先頭で回ると、直線では強く追われることなく後続をぐんぐん突き放し、2着のウイングアローに7馬身差を付けて楽勝している。
しかし、翌春のドバイワールドC遠征計画が具体化したその年の末、右前肢に浅屈腱炎を発症していることが判明。治療に長期を要することなどから現役引退、種牡馬入りとなったのは、まさに痛恨の極みだった。
前置きが長くなったが、そのクロフネが引退に追い込まれるなど、競走馬にとって“不治の病”と呼ばれる屈腱炎を克服してジャパンCダートを2度制したのが本稿の主役、カネヒキリである。
カネヒキリは2002年、サンデーサイレンスの直仔、フジキセキを父として生を受けた。そして、その時のセレクトセールで馬主の金子真人(のちに金子真人ホールディングスに名義を変更)に2100万円で購買され、ノーザンファームでトレーニングを受けたのち、角居勝彦厩舎に預けられた。
今に名を残す名馬カネヒキリだが、当初はクラシック路線を目指して芝を使われ、2戦連続で大敗。しかし、3戦目にダートを使われると2着に7馬身差で勝利し、続く500万下(現1勝クラス)では2着に1秒8もの差を付けて大差勝ちを収めた。
それでもクラシック参戦の可能性を模索していた陣営は芝の毎日杯(G3)に出走するが、差のある7着に終わる。この結果を受けてダートに戦場を絞ったところから、カネヒキリの快進撃が始まる。
4月末の端午S(OP)を9馬身差で勝つと、6月のユニコーンS(G3)で重賞を初制覇。ここからはダート交流競走に参戦し、7月のジャパンダートダービー(G1、大井・ダート2000m)を0秒8差で圧勝。9月のダービーグランプリ(G1、盛岡・ダート2000m)も制して3歳ダート戦線で頂点に立った。
次走から古馬との対戦となり、初戦の武蔵野Sはスタート位置である芝の分部で足を滑らせて出遅れ、惜しくも2着に敗れた。しかし、続くジャパンCダートではシーキングザダイヤらとの激しい叩き合いをハナ差で制して、JRA・G1の初制覇を達成。翌2006年も初戦のフェブラリーS(G1)を圧勝して好調な滑り出しを見せた。
続いては、待望のドバイワールドC(UAE・G1)への遠征を果たして4着に入着。帰国後は帝王賞(G1、大井・ダート2000m)で逃げた船橋のアジュディミツオーを捉まえ切れず2着に敗れた。
その後はマイルCS南部杯(G1、盛岡・ダート1600m)を目指していたが、右前肢に屈腱炎を発症していることが判明。休養に入ることになった。
休養先で手術を受けて回復していたように見えた患部だが、トレセンに帰厩して復帰を目指していた矢先に屈腱炎が再発。休養に入るのを機に、カネヒキリ陣営はここで新しい治療法を用いた手術にチャレンジさせる。
それは「幹細胞移植治療」といった。
幹細胞(ステムセル、stem cell)とは要約すると、絶えず入れ替わり続ける組織を保つため、失われた細胞を再生産、補充する能力をもった細胞のこと。この幹細胞を馬体から抽出し、培養したのちに屈腱炎の患部に移植して、一部断裂した腱線維の再生を促す治療法である。これは、それまでの自然に炎症が治まり、腱線維が再生するのを待つのとは一線を画す方法で、幹細胞が再生を促すことによって、より負荷に強い再生が期待できるとされている。
カネヒキリの場合は、社台ホースクリニックとJRA競走馬総合研究所が連携して行われ、胸骨の骨髄液を抽出し、その幹細胞を治療に使った。
首尾は上々だったが、じっくりとリハビリに時間を費やした。というのも、前述したように損傷した腱は完全に元の状態に戻るわけではないので、牧場でも厩舎でも手探りの状態でトレーニングを進めるしかなかったからだ。実戦への復帰を果たすまでには長い時間を要した。
「砂のディープインパクト」が魅せた不屈の闘志
カネヒキリがレースに戻ってきたのは2008年の11月。2006年の帝王賞から2年4か月もの月日が経ち、6歳の秋を迎えていた。
復帰初戦の武蔵野Sで、ファンは期待を込めてカネヒキリを2番人気に推したが、中団のまま伸びることなく、勝ち馬から0秒6差の9着に敗れている。「やっぱり復活は無理か……」ファンの溜息が聞こえてきそうな、元王者らしからぬ敗戦だった。
続いてカネヒキリは、この年から阪神のダート1800mへ舞台を移したジャパンCダートへ向かった。単勝は前走の敗戦もあって4番人気までさらに下がった。
しかし、かつて「砂のディープ(インパクト)」とまで呼ばれたカネヒキリは、能力も闘志も失ってはいなかった。
骨折で休養中の武豊にかわって手綱をとるC.ルメールを背にG1の舞台に臨んだ彼は、先行集団に取り付いて5番手付近でレースを進めると、直線でインコースから底力を感じさせる力強いフットワークで抜け出し、メイショウトウコンと1番人気のヴァーミリアンの猛追を僅かに抑えてゴール。2005年以来、約3年の間隔をはさんで2度目のジャパンCダート制覇を成し遂げたのだ。まさに奇跡の復活だった。
カネヒキリの長い闘病生活を気にかけていた満場のファンを熱狂させ、オーナーの金子やトレーナーの角居も涙ぐんでいるように見えた。
その後もカネヒキリは東京大賞典(Jpn1)、川崎記念(Jpn1)に勝つなど第一線で活躍を続け、2009年には左第3指骨の骨折で1年の休養を挟みながら、8歳の夏までダートのトップホースとしての矜持を保ち続けた。そして8月のブリーダーズゴールドC(Jpn2)の後、古傷に加えて、他の箇所にも浅屈腱炎を発症したため引退することになった。
しかし、屈腱炎による長期休養を経て復活した不屈の魂によって、後ろに続く同じ病を得た馬たちのスタッフに希望をもたらし、また獣医学の見地からも貴重な成功例として光明をともした功績は他に代えがたい価値を持ち続けている。(文中敬称略)