凱旋門賞でオルフェーヴルを撃破したO.ペリエの衝撃!C.ルメール、M.デムーロらに道を切り拓いた名手の華やかな足跡【競馬クロニクル 第40回】
外国人騎手がレースに乗るのが当たり前の光景になって久しいが、その源流は1994年に導入された「短期騎手免許」制度にある。
この制度について公式な記述をJRA公式サイトから引用すると、「外国の騎手に対しては臨時に試験を行うことがあり、試験に合格した者は有効期間3ヶ月以内の免許を受けることとなる」とされており、JRAでは内規によって同時期に最大5人までの騎手に発行している。
この免許を最初に取得したのは1994年、ニュージーランドの女性騎手L.クロップだった。彼女は当時、自国でも目立つ成績を残していたわけではなかったが、のちにニュージーランドのリーディングジョッキーに2年連続で輝くなど、日本での経験をステップとして大いに活躍した。
この制度が広く海外にも周知されるようになると、欧米がオフシーズンとなる冬場、世界的に見ても賞金が高額なJRAで乗りたいと希望するトップジョッキーが現れることになる。
今では当たり前となった外国人騎手の来日だが
制度が施行されて2年目となる1995年には大物外国人が免許を取得する。ひとりは南アフリカ出身で、欧州へ活動の場を移したのちにキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSなどG1レースを多数制し、1992年に英国のチャンピオンジョッキーとなったM.ロバーツ。もうひとりは、1991年に最優秀見習騎手となり、翌年にはふたつのG1を制覇したフランスのO.ペリエ。前年開催されたヤングジョッキーズワールドチャンピオンシップに招待されて初来日し、その際に感じた日本競馬の魅力に惹かれての短期免許取得だった。
ロバーツは2000年まで毎年、短期免許を取得して日本での騎乗を続け、そのなかで1998年の朝日杯3歳S(G1・現朝日杯FS)をアドマイヤコジーンで勝利。短期免許取得騎手として初のG1制覇を成し遂げた。また翌日にはナリタホマレでダービーグランプリ(G1)にも優勝する離れ業を見せ、英国リーディングジョッキーらしい確かな手腕を披露した。
しかし、日本の競馬ファンを真に魅了したのはペリエのほうだった。
1994年にも短期免許で来日していたが、1995年はいきなりワコーチカコで京都金杯(G3)に優勝し、初のJRA重賞制覇を飾ると、本国のフランスで1996~1997年、1999~2000年にリーディングジョッキーの座に就き、1996年(エリシオ)、1997年(パントルセレブル)、1998年(サガミクス)と凱旋門賞(仏G1)を3連覇するという偉業を達成。日仏を股にかけて大活躍を見せる(ちなみに2012年にはソレミアでオルフェーヴルを下して凱旋門賞4勝目を挙げている)。
短期免許での来日を続けるなかで、拠点を関西から関東に移した1999年からは、藤沢和雄調教師の絶大な信頼を得て、同厩舎が送り出す名馬たちとビッグレースを勝ちまくる。
天皇賞・秋(G1)は、2003年(シンボリクリスエス)、2004年(ゼンノロブロイ)で2連覇。有馬記念(G1)は、2002~2003年(シンボリクリスエス)と、2004年(ゼンノロブロイ)で3連覇の偉業を達成。ジャパンC(G1)は、2001年(ジャングルポケット/栗東・渡辺栄厩舎)と、2004年(ゼンノロブロイ)で二度制覇。特にゼンノロブロイは、2004年秋の古馬中長距離G1三つを完全制覇し、オーナーに2億円のボーナスをもたらしている。
マイルCS(G1)は、2001年(ゼンノエルシド)と、2005年(ハットトリック/栗東・角居勝彦厩舎)で2勝。ほかにも、フェブラリーS(G1)を二度、阪神ジュベナイルF(G1)も一度制している。
日本での経験がさらなる進化をもたらす
戦績はもちろんだが、ペリエがファンを魅了したのは、若さに似合わない巧みなテクニックだった。なかでも直線で内ラチ沿いや、馬群の狭いスペースを突いて差し切る繊細であり、また同時に果敢でもある騎乗ぶりは群を抜いていた。
その当時、筆者が元JRA騎手の某氏を別件で取材したとき、インタビュー後の余談としてペリエが話題にのぼった。そのとき、氏はいくらか怒気を含んだ口調で、「なんで日本の騎手はあんなに簡単に進路を空けるんだろう?スペースをピシャっと閉めれば、内から差されるなんていう恥ずかしい負け方はしないはずなんだが……。常から厳しい乗り方をしないから、外国人騎手に舐められるんだよなぁ」と語っていたのを思い出す。
逆に、ペリエは「逃げたり、追い込んだり、ペースを読んでさまざまな乗り方を選択する自在性は日本の競馬で学んだこと」と述懐している。
そののち、K.デザーモ、C.スミヨン、K.ファロン、C.ウィリアムズなど世界的なトップジョッキーが短期免許を取得してJRAで騎乗しているが、若きペリエが日本のファンや関係者に与えたインパクトの大きさには敵わない。
そしてまた、ペリエが日本で活躍していた当時、二人の外国人騎手が正式な免許をとってJRAに所属し、ビッグレースで大活躍するとは、みんな夢にも思っていなかった。
(文中敬称略)