ミスターシービー、ウオッカ、ヒシマサルの意外な共通点…馬名の由来は興味深いエピソードの宝庫【競馬クロニクル 第47回】
1992年の春のこと。きさらぎ賞、毎日杯、京都4歳特別とG3を3連勝した、父に米三冠馬のセクレタリアト(Secretariat)を持つ良血の外国産馬について筆者がやや興奮気味に話していたところ、編集部の先輩に「それ、2代目なの知ってる?」と問いかけられた。あたまの中に「?」を浮かべて聞いていると、その先輩は「『ヒシマサル』って、昔にも同名の馬がいたんだよね」とサジェスチョンしてくれた。
その言葉を受けて調べてみると、1959年の安田記念の勝ち馬に『ヒシマサル』の名前があった。1955年生まれの牡馬で、父ライジングフレーム、母カッター(父・月友)という当時としては一流の血統。“ヒシ”の冠号で知られる阿部家の持ち馬で、名義は阿部雅信となっていた。勝ち鞍には上記のほか、毎日王冠、セントライト記念などがあり、種牡馬入りしてからは自身と同じく安田記念を勝つヒシマサヒデを輩出。さらにそのヒシマサヒデも種牡馬となり、伝説の“スーパーカー”マルゼンスキーに三度挑んだヒシスピード(京成杯など)を送り出していた。
では、どうしてこの『ヒシマサル』という名前、どうして二度使えたのだろうか。「顕著な活躍があった名前は使用できない」という規則があるため、安田記念を制している『ヒシマサル』の名前の再使用は、この縛りに引っ掛かるはずだからだ。
これは初代『ヒシマサル』を所有した雅信氏の子息で、馬主としての阿部家の再興を『ヒシマサル』の名に託そうとした阿部雅一郎氏の、ある機転によって再使用を可能にしたレアケースであることが分かった。
2代目『ヒシマサル』は米国産であるため、阿部は米国での馬名登録を英字表記『Hishi Masaru』として行い、これを競走馬として輸入して日本での馬名登録を行う際、カタカナ変換して『ヒシマサル』としたのである。
こうした場合、2頭の同名馬の混乱を避けるため、血統登録書上の表記では、2代目であることを示す「Ⅱ」の文字を末尾に付ける『ヒシマサルⅡ』、もしくは生年を付記する『ヒシマサル(1995)』とするよう配慮されている。
この“同名異馬”についてさらに探っていくと、他の名馬にもこうしたケースがいくつか存在することが分かった。1983年、中央競馬史上3頭目のクラシック三冠馬となった『ミスターシービー』も実は2代目だった。
戦前から日本の競走馬生産に重要な位置を占めた群馬県の千明(ちぎら)牧場(のちに千葉、北海道・浦河などにも分場を設立)。天皇賞(前身となる帝室御賞典を含む)を幾度も制し、また、千明賢治氏がオーナーの時代にはスゲヌマ(1935年)が、康氏の時代にはメイズイ(1960年)が日本ダービーを制するなど、名門と呼ばれるにふさわしい格を有するブリーディングオーナーだった。
その後、賢治氏の孫にあたる千明大作氏がオーナーとなった時代に、氏は牧場を代表する馬としての活躍を願って、“天馬”トウショウボーイの仔に『ミスターシービー』の名を付す。『シービー』とは、千明の「C」、牧場の「B」を表したもので、英語表記にすると『Mr.C.B.』となる。
初代の『ミスターシービー』は賢治氏がオーナーだった1934年に千明牧場で生まれた牡馬。1937年の日本ダービーに出走(10着)した経験を持つものの大レースには勝てず、種牡馬にもなれなかった。そのため、のちに2代目として同じ名前を付けることには何の支障もなかった。
千明大作氏の願いが実って、2代目『ミスターシービー』は1983年にクラシック三冠を達成。祖父の賢治氏(スゲヌマ)、父の康氏(メイズイ)に次ぎ、ブリーディングオーナーとして親子3世代で日本ダービーを制するという唯一の記録を残すことになった。
2代目の大活躍という意味で忘れてはならないのが、64年ぶりとなる牝馬による日本ダービー(G1)制覇を成し遂げるなど、“牝馬の時代”を高らかに謳い上げた『ウオッカ』だろう。ただし『ウオッカ』は前記の2頭と違って、初代とはまったく関係なく付けられたケース。ちなみに初代『ウオッカ』(1993年生)はJRAで7戦して未勝利で、地方へ転出した記録が残っている。2代目『ウオッカ』は父であるタニノギムレットから得た“酒つながり”での連想で、カントリー牧場のオーナーだった谷水雄三氏が付けた名前である。
先に公開した“珍名”も含め、競走馬の名前は興味深いエピソードの宝庫。また折に触れて取り上げてみたい。