武豊「陣営と衝突」が礎となったケイティブレイブの自在性。「無念の降板劇」で終戦後、福永祐一が開花させた「レジェンドの理念」
だが実は、そんなケイティブレイブの自在性の「礎」となったのは、福永騎手よりも1つ前の主戦騎手・武豊と語る関係者は多い。3歳春のジャパンダートダービー(G1)から主戦となった武豊騎手は、翌年2月の川崎記念(G1)までの6戦で騎乗。最後は陣営との”衝突”によって、無念の降板となったようだ。
「逃げればいいんだよ。ついて来る馬は潰れる」
今回のJBCクラシックの勝利は、開業3年目の杉山晴紀調教師に初のG1勝利をプレゼントすることとなったが、今年2月の定年まで本馬を管理していたのは目野哲也調教師だった。
かつて、武豊騎手の手綱でG1・6勝を上げたスマートファルコンのような圧倒的な逃げ馬になることをイメージして、競馬界のレジェンドに管理馬を託した目野調教師。だが、武豊騎手は「番手からでも勝ってるし、逃げ一択だとマークされたり、潰される事もあるから幅を持たせた方がいい」と主張。2人の教育方針には、当初から大きな食い違いがあった。
しかし、約半年後の川崎記念で好位からの競馬したケイティブレイブは、伏兵オールブラッシュの逃げ切りを許す結果に……。納得がいかない陣営が、このレースを最後に武豊騎手の主戦降板を決断したというわけだ。
その後、主戦を託されたのが今の福永騎手だが、先述した昨年の帝王賞で後方から強い競馬でG1初制覇。これまで逃げて、あと一歩で届かなかったビッグタイトルが”偶然の産物”で転がり込むという、陣営にとってはなんとも皮肉な結果となった。
その後、思い直した目野調教師は考え方を軟化。昨年のJBCクラシックでは6番手からの競馬で2着に敗れたが、福永騎手の試みにも理解を示していたという。結果的に、その姿勢がバトンを受け継いだ杉山厩舎にも継承され、今年のJBCクラシックでの”リベンジ”に繋がった。