ナリタブライアン、メジロパーマー、ナリタタイシンなど「ウマ娘」たちを育てた名伯楽が逝去
25日、JRAから残念な知らせが発表された。それは数々の名馬を送り出してきた大久保正陽元調教師の訃報だ。享年87だった。
1957年に騎手としてデビュー。1970年の引退まで地道な活躍をしていた。翌71年に調教師免許を取得、73年から開業し、06年の引退まで33年の長きに渡って多くの馬を管理。通算成績は7007戦597勝、重賞は50勝でうちG1級の勝利11勝と輝かしい成績を挙げた。
ここ数年で競馬を始めた方や2000年代以降からの競馬を知っている方にはピンと来ない名前かも知れないが、G1級の勝利の大半は90年代に挙げたもので、この年代には競馬史に残る多くの名馬を送り出していた。
ナリタブライアン、メジロパーマー、ナリタタイシン。いずれも『ウマ娘 プリティーダービー』(Cygames)に登場するキャラクターだが、この3人(3頭)はいずれも亡くなった大久保調教師が90年代に手がけた名馬だ。
今回はこの3頭の印象に残ったレースを振り返ってみたい。
まず最初はメジロパーマー。87年生まれの同馬はメジロの黄金期を支えた1頭で、メジロマックイーンやメジロライアンと同期になる。ライアンは90年のクラシックを皆勤、マックイーンは菊花賞(G1)からの登場だったが、その菊花賞を制して名馬への道を駆け上がっていく。
このときメジロパーマーは、まだ一介のオープン馬に過ぎなかった。91年の札幌記念(当時G3)を制して初重賞制覇。しかし、その後が続かず障害転向までしている。転機は92年の宝塚記念(G1)。9番人気の人気薄をあざ笑うかのような逃げ切りで、1番人気カミノクレッセを3馬身離して圧勝した。
晴れてG1馬の仲間入りをしたのだが、秋シーズンを2戦していずれも大敗。そして迎えたのが有馬記念(G1)だった。春にG1を勝っているにもかかわらず、15番人気と超が付く人気薄。1番人気は前走ジャパンC(G1)を勝ったトウカイテイオー、2番人気はミホノブルボンの三冠を阻止して菊花賞を勝ったライスシャワー、3番人気はマル外で3戦連続2着とジャパンC5着が評価されたヒシマサルだった。
メジロパーマーは出が悪かったので押して押してハナを主張しそのまま逃げの態勢に。スローペースに落としてマイペースで逃げる中、途中かかり気味だったダイタクヘリオスに前を譲るが、再びハナに立って後続を離したまま直線へ。最後の坂を上がったところでもまだリードを保っていたが、内からレガシーワールドが一気に伸びてきて、並んだところがゴール。辛うじてハナ差だけしのぎ、グランプリ連覇を果たした。
当時、馬券は馬連までしかなかったが、15番人気と5番人気の組み合わせで3万1550円の大波乱となった。
そして、この翌年のクラシックを賑わしたのがナリタタイシン。2歳(当時3歳表記)時には地味な存在だったが、ラジオたんぱ杯3歳S(現ホープフルS・G3)を勝ってクラシック候補の一角に。
その後、シンザン記念(G3)と弥生賞(G2)を2着して迎えたのが皐月賞(G1)。1番人気はホープフルS(OP)を2歳時に勝ち、春初戦の弥生賞を制したウイニングチケット。2番人気は2歳時にデイリー杯3歳S(現デイリー杯2歳S・G2)を勝ち、朝日杯3歳S(現朝日杯FS・G1)と春初戦の共同通信杯4歳S(現共同通信杯・G3)を2着したビワハヤヒデで、これに続く3番手評価だった。
レースは外枠からスタートで無理せず後方待機策。3コーナー過ぎから徐々に位置を上げていき、迎えた直線でも外目の後方のまま。前で先頭に立って粘り込みを図ろうとしたビワハヤヒデの後ろから馬群を割って追い込み、ゴール前クビ差捉えて勝利した。
スローペースで前残りの展開だったが、1頭だけ上がり34秒台の脚で追い込み、強さを見せつけたレースだった。この後、日本ダービー(G1)はウイニングチケット、菊花賞はビワハヤヒデと三冠を分け合い、後にBNWと呼ばれる3強を形成した。
さらに、この翌年のクラシックを席巻したのがビワハヤヒデの半弟となるナリタブライアンだった。
2歳時からビワハヤヒデの半弟ということで注目を集めていたが、実力を認識させたのが朝日杯3歳Sでの圧勝。さらに共同通信杯4歳SとスプリングS(G2)も圧勝してクラシックの主役に。迎えた皐月賞は3馬身半差、日本ダービーは5馬身差をつけて二冠達成。秋初戦の京都新聞杯(G2)は落としたが、菊花賞では7馬身差をつけて大楽勝し、シンボリルドルフ以来となる三冠を達成した。
そして迎えたのが有馬記念だった。ファン投票でもぶっちぎりの1位、単勝オッズも1.2倍と圧倒的な1番人気。2番人気は同年の天皇賞・秋(G1)を制したネーハイシーザーだったが、単勝12.3倍と極端に差が付く。3番人気は長距離重賞連続2着が買われたアイルトンシンボリ。
レースはツインターボの大逃げで幕を開け、ナリタブライアンはそこから離れた4番手追走。向こう正面でもツインターボの逃げは止まらなかったが、3コーナー過ぎで手応えが怪しくなり、差を詰めていきながら4コーナー過ぎで先頭に立つと、そのまま直線で後続に差を付けていく。後ろから同世代の女帝ヒシアマゾンが追い込んでくるが、最後はナリタブライアンが3馬身差の圧勝を飾った。
この後、ナリタブライアンはG1を勝つことはできなかったが、96年阪神大賞典(G2)でG1・4勝のマヤノトップガンと歴史に残る名勝負を演じるなど、三冠馬の名に恥ずかしくないレースを繰り広げた。
これら90年代の競馬を語る上で欠かせない名馬たちを育て、管理してきた大久保正陽元調教師は名伯楽と呼ぶにふさわしい調教師だった。ご子息の大久保龍志調教師もまた亡くなった父に劣らぬ活躍をしており、立派に名跡を継いでいると言える。
これまでの活躍に敬意を払いつつ、ご冥福をお祈りしたい。