オグリキャップ、ナリタブライアンだけじゃない。ナイスネイチャ、マチカネタンホイザの勲章になった高松宮杯と高松宮記念の歴史【競馬クロニクル 第2回】
春のG1シーズンの幕開けを告げる高松宮記念が26日(日)に迫った。
ことしで53回を迎えるこのレースだが、現在のレギュレーション(G1、芝1200m)になったのは1996年の第26回で、それ以前は「高松宮杯」という名称を持つ別スペックのレースとして行われていたことをみなさんはご存知だろうか。
今回は高松宮記念の開催に合わせ、このレースが“春のスプリント王決定戦”になるまでの歴史を掘り起こしてみる。
高松宮杯が創設されたのは1971年のこと。グレード制導入前だったため「G」表記は無く、中京競馬場の芝2000mコースを舞台としたオープン競走としてスタートした。
このレースが大きな注目を集めるようになったのは創設から4年、1974年のこと。“元祖アイドルホース”と呼ばれ、第一次競馬ブームの立役者となったハイセイコーが出走した年だった。
4歳の春、天皇賞で6着に敗れたのち、宝塚記念で前年の皐月賞以来となるG1級レースの勝利を挙げたハイセイコーは、その余勢を駆って高松宮杯に参戦。すると、当日の中京競馬場には6万8469人ものファンが詰めかけ、同場の最多入場者レコードを記録した。
レースはハイセイコーが圧勝を飾り、“あのハイセイコーが勝ったレース”として高松宮杯は一気に競馬ファンなら誰もが知る全国区の存在となった。
その後の高松宮杯の勝ち馬には絢爛たる名前が並んでいる。
75年の勝ち馬である名牝イットー。その血を引き、“華麗なる一族”と呼ばれたハギノトップレディ、ハギノカムイオー。“天馬”とまで呼ばれ、種牡馬としても大成功を収めたトウショウボーイ。第二次競馬ブームを巻き起こしたアイドルホース、オグリキャップ。日本ダービーでサクラチヨノオーと火の出るような叩き合いを演じて2着となったメジロアルダン。マイルCSでオグリキャップと激闘を繰り広げたバンブーメモリー。1200mから2500mまでを守備範囲とした稀代の逃げ馬にしてクセ馬、ダイタクヘリオス。
そして、どうしてもG1タイトルに届かなかったナイスネイチャ、マチカネタンホイザが本レースを制しているのも興味深いところだ。
84年にグレード制が導入されてからは、出走馬の豪華さから秋の毎日王冠と並んで、いまでいう“スーパーG2”、当時では「G2のなかのG2」と位置付けられるようになった。
話は少し横道に逸れる。
地方の笠松競馬から中央に移籍して連戦連勝で話題になっていたオグリキャップ。関東初見参となったニュージーランドトロフィー4歳S(現・ニュージーランドトロフィー)で彼の圧倒的な走りを目前にし、その存在に魅入られてしまった筆者が、初めての“旅打ち”(ギャンブル旅行)に出かけたのが88年の高松宮杯だった。
当時3歳だったオグリキャップが初めて古馬の実績馬たちと対決するということで、この年も大きな話題を集めた。結果、オグリキャップは前年の覇者である3歳も年上のランドヒリュウを直線でねじ伏せるようにして圧勝。中央入りしてからすべて重賞での5連勝という快挙を達成し、ファンのあいだで絶大な人気を博することになる。そして同時に、筆者が“競馬沼”に引きずり込まれるきっかけにもなったのである。
以後、高松宮杯は大きな転機を迎える。まず、秋のスプリンターズSのような短距離G1が春シーズンに無いということから、96年から距離が変更され、グレードもG1に格上げされる。
そして2年後の98年、レースの名称が「高松宮記念」と変更。名実ともに現在と同様の形が整うことになる。
例外的だったのは、2011年の第41回。このときは中京競馬場の改修工事にあたり、阪神競馬場に舞台を移して施行されている。
名称が高松宮記念となってからの勝ち馬には名だたるスプリンターが顔を揃えているが、なかでも特に目立つのは13年、第43回のロードカナロアだろう。
ロードカナロアは12年秋のスプリンターズSを制してようやくG1タイトルを手に入れると、初の海外遠征で香港スプリントも圧勝。そして13年春の高松宮記念を勝って春秋スプリントG1制覇の快挙を達成。さらにはマイルの安田記念を制すると、セントウルSこそ2着に惜敗するが、スプリンターズS、香港スプリントをともに2年連続制覇を達成して現役を退いた。
日本の歴代最強スプリンターの称号を得た彼が種牡馬となってからの活躍は説明の必要もないだろう。
牝馬三冠を含むG1レース9勝という最多勝利記録を残したアーモンドアイをはじめ、現役では先のサウジカップを制して世界を驚かせたパンサラッサなどを輩出。チャンピオンサイアーの座についている。
それは、スプリンターの枠を超えて超ハイレベルな能力を伝える例として、日本産種牡馬としての歴史を塗り替えるものとなった。
高松宮杯、高松宮記念の歴史を語るうえで、もうひとつ落とせないことがある。
1996年、G1に昇格した年の高松宮杯年に、三冠馬ナリタブライアンが出走した“事件”だ。
デビューからの3戦は1200mのレースを使っているのだが、三冠戦で距離が延びるほど2着以下との差を広げたナリタブライアンは中長距離馬と認識されていた。実際、この年の春は阪神大賞典(3000m、1着)、天皇賞・春(3200m、2着)。この挑戦はファンからの非難の声が巻き起こると同時に、極めて高い注目を集めた。
距離不適の声が大きかったなかでも単勝2番人気に推されたナリタブライアンは中団の後ろ目から追い込んで4着に健闘(優勝はフラワーパーク)。能力の高さをあらためて認識させることになった。
後日、大久保正陽調教師(故人)に取材した際、
「私は距離に関するこだわりはありません。能力がある馬ならば、3000mだろうと1200mだろうと勝負になるはず、というのが私の考え。ナリタブライアンを高松宮杯に出したのも、特別なことだとは思いません」
と、多くの非難に対する反論を堂々と口にしたことが印象に残っている。