「どうして自分ではダメなのか」降板告げた師匠に直訴…G1で乗り替わりが珍しくなかった時代、引退まで義理を貫いた名手が見せた恩返し【競馬クロニクル 第51回】

 いまでこそ若手ジョッキーをG1に乗せることも珍しくなくなったが、1980年代ぐらいまでは、若手の乗り馬がクラシックの有力馬の1頭に数えられるようになるや、その時どきのトップジョッキーが乗り替わるのは当然のことだった。

 またクラシック戦線の戦い方や、ファンの見方も現在とは大きく違っていた。

 皐月賞トライアルの弥生賞やスプリングSまで東西の馬が直接対決することは滅多になく、それまでは東西の馬がそれぞれに分かれて戦い、皐月賞で初めて激突するのが普通だった。それゆえ関係者のみならず、関東のファンは関東馬を推し、関西のファンは関西馬を熱い思いを胸に応援した。

 たとえば、悲劇の名馬として知られるテンポイント。関東では“天馬”トウショウボーイが大人気を博していたが、それに対してテンポイントが阪神3歳Sを豪脚で圧勝した際、テレビで実況を担当した杉本清が、「見てくれこの脚。見てくれこの脚。これが関西の期待、テンポイントだ!」と絶叫調で発したこのフレーズは今もファンのあいだで語り継がれている。それほど当時の競馬は東西の対抗意識が強かった。

 これは余談だが、グレード制が導入される前年の1983年までは、クラシックや天皇賞、有馬記念、ジャパンCなどの大レースを除いて、関東のレースは関西では発売されず、その逆も同様だった。1970年代の後半になって、ごく稀に東西の馬が混じって走るG2級のレースでも東西の垣根を越えて馬券が売られることがあったが、それには「(東西)相互発売」という大層な呼び名が付けられていた。

 1970年のクラシックは、東のアローエクスプレス、西のタニノムーティエ、両馬の名前の頭文字をとって『AT対決』との呼び名で空前の盛り上がりを見せていた。

 東のアローエクスプレスは、競馬に対して人一倍の熱意を持つオーナー、伊達秀和が欧州から輸入した良血の繁殖牝馬、ソーダストリーム(Soda Stream)の仔。父のスパニッシュイクスプレス(Spanish Express)も伊達が輸入を取り仕切ったというから、公式記録で生産は三澤牧場となっているが、実際には伊達の生産馬と言ってもよい存在だった。デビュー戦をレコードで制するなど類稀なるスピードを見せ、これもレコードタイムで駆けた朝日杯3歳S(現・朝日杯フューチュリティS)まで無敗の5連勝を記録して、関東のファンから熱い支持を受けていた。

 この優駿の手綱をとっていたのがデビュー3年目、重賞さえ勝っていない若手の柴田政人。預託された高松三太厩舎に所属していたことから抜擢され、盲腸炎に罹っていた京成杯3歳S(現・京王杯2歳S)と朝日杯3歳Sは、当時のリーディングジョッキーだった加賀武見に乗り替わったものの、他の3戦はアローエクスプレスの持ち味であるスピードを存分に引き出す好騎乗を見せていた。

 ちなみに柴田政が競馬の世界に入ったころはまだ競馬学校(千葉県・白井市)はできておらず、騎手を志望するものは東京・世田谷にある馬事公苑の『騎手養成長期課程』で厳しいトレーニングを受けた。同期には、いまも中央競馬史上最高の天才と呼ぶ人も多い福永洋一をはじめ、数々の記録を塗り替えて2943勝を挙げる岡部幸雄、調教師としても活躍した、のちのダービージョッキー伊藤正徳などの出世騎手が揃っていたため、彼らは柴田政を含めて『馬事公苑 花の15期生』と呼ばれていた。

 1970年の初戦、アローエクスプレスは京成杯に出走。仕上がり途上だったため抜け出すのに手間取ってハナ差の辛勝となったが、それでも連勝記録を「6」に伸ばした。

 次走、皐月賞トライアルのスプリングSは、ファンが待ちに待った「A」と「T」の初対決の舞台となり、中山競馬場は満場のファンに埋め尽くされた。

 アローエクスプレスはスピードを生かして先行し、タニノムーティエは後方に待機。アローは直線に入って先頭に躍り出るが、後方から豪脚を繰り出したタニノがゴール前でそれを捉え、3/4馬身差で勝利。アローエクスプレスの連勝記録は「6」で止まった。

 それでも柴田政は本番の皐月賞で巻き返せると信じて日々を過ごしていたが、ある日、師匠の高松に呼び出される。そのとき、高松の口から発せられた言葉は「アローを乗り替わってもらう」という、にわかには信じ難い内容だった。

 アローエクスプレスの乗り替わりを主張したのはオーナーの伊達で、当時のトップオブトップであった加賀武見へスイッチしてほしいとオーダーした。愛弟子の柴田政を乗せ続けたかった高松だったが、まだ駆け出しの柴田政とリーディングでトップを走る加賀を比べるとあまりにも分が悪く、泣く泣く首を縦に振るしかなかった。

 降板を申し渡された柴田政は悔しさを紛らわすために深酒すると、その勢いを借りて高松を訪ねて涙ながらに「どうして自分ではダメなのか」と訴えた。普段から誰に対しても礼を失することなど考えられない柴田政の行動に高松は一瞬たじろいだが、若い弟子を落ち着かせるようにこう説得したという。

「誰よりも自分が乗せてやりたいが、みんなそれを許してはくれないだろう。アローはもう競馬のファンの馬になった。そしてアローは日本一になれる馬だから、日本一の騎手を乗せるのは当然のこと。悔しかったら加賀を超える騎手になれ」

 正論を突き付けられた柴田政は引き下がらざるを得なかった。悔しかった。しかし、この試練から這い上がらなければ騎手としての明日はない。そう自分に言い聞かせた。

 アローエクスプレスはその後、皐月賞がタニノムーティエの2着、日本ダービーもタニノの5着、菊花賞はダテテンリュウの9着とクラシックを勝つことは叶わなかった。年末の有馬記念では柴田政が騎乗したが、そのレースでもスピードシンボリの4着と、自身が手綱をとっていたころの勢いは失せてしまっていた。

 その後、アローエクスプレスは脚部不安を発症し、翌年に1走した時点で現役引退が決まった。良血だったアローはたくさんの繁殖牝馬を集め、牝馬クラシック二冠のテイタニヤ、桜花賞馬リーゼングロス、オークス馬ノアノハコブネなどを出す活躍を見せた。

 柴田政はのちにアローエクスプレス降板というシビアな出来事を振り返って、「僕は大きいレースでアローに乗れず悔しい思いをしたおかげで一人前の騎手になれた。早く一人前の騎手になって、アローに恩を返したいという一念が自分をささえてくれた」と述懐している。

 また、厳しい言葉で自分を諭してくれた高松三太にも感謝し、慕い、フリーになる騎手が多くなる世の流れのなかでも高松厩舎に所属し続け、それは三太の引退を受けて開業した子息の高松邦男厩舎の時代、つまり自身の現役引退まで続いていった。またオーナーの伊達とも仲たがいはせず、ファンタスト(皐月賞)、ブロケード(桜花賞)でクラシック制覇の際には柴田政が手綱をとっており、調教師に転じてからも親交を続けた。

 競馬の世界では「名馬が名騎手を育てる」という言葉がよく使われてきた。よく例示されるシンボリルドルフと岡部幸雄のように、である。しかしその逆に、「名馬に乗れなかったことが名騎手を育てた」という珍しいケースが、このアローエクスプレスと柴田政の関係だったのではなかろうか。ただしこれは、柴田政人という極めて愚直なまでに素直なハートを持った人だから可能だったひとつの奇跡でもある。
(文中敬称略)

三好達彦

1962年生まれ。ライター&編集者。旅行誌、婦人誌の編集部を経たのち、競馬好きが高じてJRA発行の競馬総合月刊誌『優駿』の編集スタッフに加わり、約20年間携わった。偏愛した馬はオグリキャップ、ホクトヘリオス、テイエムオペラオー。サッカー観戦も趣味で、FC東京のファンでもある。

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