「100万円」にも満たなかったトニービンの意外なブレイク!スーパーサイアー「戦国時代」に社台グループのしたたかな戦略【競馬クロニクル 第49回】

 1986年から始まったとされるバブル景気を背景に、日本の競走馬生産の世界において1990年代、「スーパーサイアーの戦国時代」が訪れた。

 今振り返っても異常な時代だった。

 バブル紳士が掴んだビッグマネーが競馬の世界へ流れ込み、新興のオーナーは北海道じゅうの仔馬を漁り尽くさんばかりの勢いだった。ある生産者が発した「脚が4本付いてたら値が付いた(売れた)」という、いささか趣味の悪いジョークを聞いた覚えがある。

 年次別のサラブレッド生産頭数を見ると、それ以前の“景気がいい”時代でも8000頭弱だったものが、1988年あたりから急な上昇曲線を描き、1991年にはついに1万頭を突破。翌年には1万407頭に達している(その後、2012年は6828頭まで減少したが、現在は8000頭弱で落ち着いている)。

 そうした時代、おびただしいほどの活躍馬を輩出し、社台グループが飛躍する土台を作ったノーザンテーストも高齢に差し掛かかっていた。そこで社台グループのみならず、生産地全体を巻き込んだ“ポスト・ノーザンテースト”探しが始まった。

 きっかけは1頭の見栄えのしない凱旋門賞馬の導入だった。トニービンである。

 1983年生まれのトニービンはアイルランド産、イタリア調教の馬。一説によると、アイルランドのセリで100万円に満たない低価格で落札されたという。実質的なオーナーはルチアーノ・ガウチ(名義は夫人のデル・ボノ・ガウチ)。のちにイタリア『セリエA』のACペルージャ、つまり元日本代表のフットボーラー、中田英寿が欧州へ踏み出した最初のチームを買収したことで知られた実業家である。

 大した期待もないままにデビューしたトニービンだったが、晩成の血が騒いだのか、1987年の凱旋門賞(仏G1)で2着に食い込むと、翌年にはイタリアのG1を3連勝したのちに臨んだ凱旋門賞を優勝。その後イタリアでの1戦をはさんで、ジャパンC(G1)に来日。米国のペイザバトラーの5着に終わり、現役を引退した。

 実はその年の凱旋門賞が終わったころ、欧州のエージェントから社台グループに、「オーナーがトニービンを売りたがっている」という連絡が入っていた。その報を受けた吉田勝己はすぐイタリアへ飛んで、購買する契約を取り付けた。そしてトニービンをジャパンCに出走させ、種牡馬入りするにあたっての、生産者への“お披露目”を行うというプランを立てた。

 やや話は逸れるが、ルチアーノ・ガウチは実業家、つまり“商売人”である。たとえば弱小クラブであるACペルージャを買収したのも、青田買いした選手のなかで伸びたものを他のチームに売って利益を出す。これが商売のベースにあり、事実、並外れた能力を見せた中田英寿は1年半ほど在籍したのち、名門ASローマへジャンプアップし、莫大な移籍金をACペルージャに残した。

 おそらくガウチにとってのトニービンは、フットボールの中田英寿と同じような存在として見ていたのだろう。凱旋門賞に優勝し、馬の価値が最大化したと判断した時点ですぐに売却する。その意味で彼は優秀なビジネスパーソンである。

 凱旋門賞馬の種牡馬入りということで、社台グループが総額10億円を超えるシンジケートを組んだことなどが話題にはなった。しかし、世界のトレンドから見れば地味な血統背景や、日高の生産者が大事にする“見栄えの良さ”や”大きさ”に欠けるトニービンに対する評価は賛辞一辺倒ではなかった。

 しかし、トニービンは成功を見せる。それも、想定外の大成功だ。

 初年度の種付頭数は57頭にすぎなかったが、初年度産駒から、ウイニングチケット(日本ダービー)、ベガ(桜花賞、オークス)がクラシックを制覇。一気にトップサイヤーの1頭に数えられる存在となった。また同年に生まれたサクラチトセオー(天皇賞・秋)や、春秋のマイルG1を制したノースフライトも活躍。結果、そして1993年には種付頭数が100頭を超え、翌年のリーディングサイアーに輝いたのである。

 他にもオフサイドトラップ(天皇賞・秋)、エアグルーヴ(オークス、天皇賞・秋)、レディパステル(オークス)、ジャングルポケット(日本ダービー、ジャパンC)、テレグノシス(NHKマイルC)と、次々にG1ウィナーを送り出したトニービン。2000年に18歳で急死したのが惜しまれるが、彼の成功が呼び水となって、続けざまにスーパーサイアーとなる種牡馬が海外から輸入されることになる。

 それが、三冠馬ナリタブライアンを出すブライアンズタイムであり、ディープインパクトなどの名馬を次々と輩出して、日本の血統地図を塗り替えるほどの絶対的存在となるサンデーサイレンスだったのだ。

 こんにちでは、繋養種牡馬の質量ともに社台スタリオンステーションの“一強”のイメージが強いが、その陰で競走馬として世界的に高い評価を受けたものを購買しながら、種牡馬としては大成しなかったケース、敢えて言えば、延々と積み重ねてきた「失敗」の歴史がある。

 サンデーサイレンスが死んだ直後の取材で、社台ファーム代表の吉田照哉が発した言葉がとても印象深かった。

「結局、どんな馬が種馬として成功するかなんて分からないんですよね。だから、『下手な鉄砲も…』じゃないけれど、いい成績を残した馬で、買えるものはぜんぶ買いたい、と。たとえばオグリキャップも欲しかったし、実際にオファーもした。僕らはたくさん失敗するけれど、それでも下手な鉄砲を撃ち続けるしかないんです」

 その後、社台グループに対抗心を燃やす人物が登場し、輸入種牡馬の戦国時代へと突入していく。(文中敬称略)(後編へ続く)

三好達彦

1962年生まれ。ライター&編集者。旅行誌、婦人誌の編集部を経たのち、競馬好きが高じてJRA発行の競馬総合月刊誌『優駿』の編集スタッフに加わり、約20年間携わった。偏愛した馬はオグリキャップ、ホクトヘリオス、テイエムオペラオー。サッカー観戦も趣味で、FC東京のファンでもある。

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